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#241 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※ ワークブック訳は「奇跡講座 ワークブック編」(中央アート出版社)を参照しています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン241
元の講義はこちら→ https://youtu.be/PFT2ph9h17U?si=rrVczSQi6xtmJnZZ


皆さんこんにちは♡
さて今回から「〜とは何か」から成る10のレッスンの、次のセクションが新たに始まります。そして今回の「〜とは何か」のテーマは、

3.世界とは何か

なんておかしな問いかけでしょう!皆、世界とは何か知っていますよね!ところがレッスンでは「実はあなたは世界とは何か全然わかっていない」と言うんです(笑)このように始まります。

1.世界とは、誤った知覚である。それは誤りから生じており、その源である誤りから一度も離れたことはない。

その誤りとは私たちの心の混乱した部分のことですね。

世界が存在するのは、それを生み出した思考が大切にされている間だけである。分離の思考が真の赦しの想念に変われば、世界はまったく異なるものに見えてくる。それは真理に至る見方であり、真理の中では全世界とともにその誤りも消滅する。もはやその源がなくなるので、その結果もまた消え去る。

これを聞いて「世界が消滅するなんて、なんて事!核戦争でも始まるっていうの⁈」と思う人もいるかもしれません。いいえ、ここで再び、私たちが今見ている世界は私たちの心が投影された幻想であるということをリマインドされているのです。

「教師用マニュアル」に「世界の終わり方」について述べてある箇所がありますが、そこには「世界は単に存在するように見える状態を止めるだろう」とあります。何か破滅的なことが起こるわけではないのです。それどころか、それとは全く逆のことが起こるのです。

もし今見えている世界は誤った外見でしかないとすれば、私たちの心が入れ替わり、浄化されればされるほど、ある時サッと、ちょうど夢から目覚めた時のように、存在するのをやめるのです。

2.世界は神に対する攻撃として作り出された。それは恐れを象徴している。そして、恐れとは、愛の不在以外の何だろうか。

ちょうど闇は光の欠如でしかないように。


だから世界とは、神/愛を締め出せる場所、神の子が神から離れていられる場所となるためのものだった。このような狂った思考を智識が生起させることはできないので、ここで知覚というものが生じた。

ここではっきりと確認しておいてください。このコースは知覚の大掃除を目的としているのであり、その先を目的としているものではありません。「智識」はその先にあるものであり、それは現在の私たちの理解が及ぶ範囲外のものです。ですが、いったん私たちの五官による知覚が大掃除されれば、私たちは智識にだいぶ近いところにいます。その最後の一歩を踏み出すのは、愛の方からなんですよ。

しかし眼は欺き、耳は偽りを聞く。今や誤謬が可能となる。確実性が消え去ったからである。

私たちは皆、何があるもので、何が無いものか、区別がついていないのです。

3.その代わりに生じたのが、幻影を作り出す器官であった。五官は、探すようにと与えられているものを見つけにいく。五官が目指しているのは、分離の実在性を証明するために作り出された世界が担っているのと同じ目的を果たすことである。五官は、世界の幻影の中に、虚偽からは隔離された真理が存在する確固とした基盤だけを見る。しかし五官が報じるものはすべて、本当の真理からは隔離されて保持されている幻影に他ならない。

言い換えれば、幻想の仕組みである私たちの目や耳は、周りを見渡して、私たちは正しいのだと思いたいのです(笑)。外側に見ている世界は、私たちの内側の鏡ですから、目と耳は常に自分たちが求めているものを見つけようとします。視覚は真実から遠いものを見つけようとします。その視線の方向を、向け直さなくてはなりません。聴覚も。これまでとは違うものを見て、聞きたいと思わなくてはなりません。

4.視覚は真理から遠ざかるために作られたが、それを逆方向に向け直すことも可能である。神が世界の救済者として任命した聖霊により、音声は神に代わって私たちに呼びかけるものとなり、すべての知覚には新しい目的が与えられる。聖霊の光に従い、聖霊が見る通りに世界を見なさい。あなたに語りかけるすべてのものの中に、聖霊の声だけを聞きなさい。そして、あなた自身は投げ捨ててしまったが、天国があなたのために聖霊の内に保存してきた平安と確かさを、聖霊から与えてもらいなさい。

失われたものは何もありません。私たちが別のものに意識を向けていただけです。

5.私たちの変化した知覚を世界が共にするまでは、安心せずにいよう。

知覚が恐れではなく愛だけを見て、聞くまでは。知覚はそのように変化する必要があります。

赦しが完全となるまでは、満足しないでいよう。自分たちの機能を変えようとするのはやめよう。私たちは世界を救わなければならない。死にゆくものとして作り出されたものが永遠の生命を取り戻せるようになるためには、世界を作り出した私たち自身が、キリストのまなざしを通して世界を見なければならない。

さあ、ここからレッスンが続きます。

レッスン241
この聖なる瞬間に救済が訪れる。

これがすべて現在形で述べられている点に注意して下さい。あなたは「まだ救済は来ていない」と思っているかもしれませんが、救済がいつか未来に訪れるなんて言ってはいけません!そんなことを口に出せば、それはいつまで未来のことになってしまいます(笑)常に現在形で話しましょう。だって、実際そうなんですからね。

「この聖なる瞬間」、これがあなたが今だけを経験するまさにその瞬間です。それは直接的、具体的体験のことであり、過去や未来についての思考ではありません。過去や未来は単なる考えです。思考であり、体験ではありません。「聖なる瞬間」とは、体験です。


1.今日は何と喜びにあふれた日だろう!特別な祝賀の時である。今日という日が、解放の準備が整った暗い世界に、その瞬間を差し出すからである。悲しみが過ぎ去り、苦痛がなくなるその日がやって来た。自由を得た世界の上に、今日、救済の栄光が輝き始める。これは無数の民にとって希望の時である。あなたがすべての人を赦す今、彼らはひとつに結ばれる。私が今日、あなたに赦されるからである。

何から自由を得たのか。それはもちろん、私を幽閉して来た自分自身の咎めからです。「無数の民」とあるのは、忘れてはなりません、私たちは皆、同じひとつの愛が無数に表現されたものです。私は彼らをありのままに見られるようになりました。全てはひとつに結ばれた創造であり、その集合体の一部、それが私たちです。

そして「私が今日、あなたに赦される」の「私」とは、このコースの声の主のことです。「じゃあなぜ私がコースの声の主を赦すの?」と思いますね?それというのも、私たちのほとんどは、自分以外のすべてが自分とは別のものだという見方をしていますが、その感覚こそ私たちが手放す必要のある咎めなのです。   

最も神聖な、最も愛に値するものと私とは、別個の切り離されたものではないのだとしたら。もしそうだとするなら、私も、それなんです。

ここから祈りの文が続きます。

2.今、私たちは互いに赦しあったので、ついに再びあなたの御許に参ります。父よ、あなたの子が、本当は一度も離れたことのない故郷である天国へと帰還します。正気を取り戻し、私たちが皆ひとつであることを思い出せるとは、何と嬉しいことでしょう。


「天国へと帰還する」とコースが語るときは、どこかこことは違う場所について言っているのではありませんね。それは、私たちの認識、私たちの意識の持ちようが、罪ではなく過ちに過ぎなかったところから、別の認識へと移行したことを言うのです。私たちは真実ではないところへ目を向けてしまい、自分自身を怖がらせてしまいました。そこから坂道を下り始めたのです。他の人たちに責任を押し着せ、それを延々と続けてきたんです。


さあ、静かな時間を取るときです。あなたが「いわゆる外のものごと」にくっつけてきた意識を取り外して、今日のレッスンにある、この真実へと意識を向け直しましょう。

静かな、美しい練習のときにしてください。
明日またここで会いましょう。
グッバイ♪




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