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#158 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※奇跡講座ワークブック編 中央アート出版社を参照しています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン158

元の講義はこちら→ https://youtu.be/tPpO0QKHSoo


ハロー皆さん、今日もようこそ。
これまでのレッスンで、「ものごとは思考とイコールである」こと、それから「思考とものごとはイコールである」ことを確認し、この2つがいかに同じものであるかについて学んできました。
今日のレッスンでは、受け取るのと同じように与えることを学びます。
前回までは、「与えることは受け取ること」でしたね。同じことなんです。

レッスン158
今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

「あなたに与えられているものとは何だろうか。それはあなたが心であるという智識である。」

この智識は知性を超えています。

「あなたは神の心の中にあり、ただ純粋に心として存在しており、」
つまりあなたは肉体ではないということ。

「愛によって(愛そのものとして)創造されたので永遠に罪はなく、まったく恐れを知らない。そしてまた、あなたは自分の源を去ったことはなく、今も創造されたままにあり続けている。これが、絶対に失いようのない智識として、あなたに与えられている。」

さて、これは知識を増やそうとする試みではなく、知覚について述べています。コース・イン・ミラクルズの目的は、知覚をクリーニングすることにあります。このレッスンは、智識は知性が体験することによって得られるものを超えたところにあると述べているのです。

「それはまた、生きとし生ける一切のものにも与えられている。この智識のみによって、生命あるものは生きているからである。」
これは体験を別の言い方で表しています。

「あなたはこの全てを受け取っている。この世界を歩む者で、それを受け取っていない者はいない。それは創造によって与えられたものなので、あなたが与えるのはこの智識ではない。これらは全て、学べるものではない。

では、あなたは今日、何を与えることを学ぶのだろう。昨日のレッスンは、『テキスト』のはじめの部分に出てきたテーマの一つを思い出させた。体験は、ビジョンのように直接共有することはできない。」

私が体験したことを、自動的にあなたの体験に移行させることはできません。情報伝達はできても、体験とはいわば心の外側で起こることなので、それは移行できません。

「父と子がひとつであるという啓示は、いずれは誰の心にも訪れる。だが、その時がいつなのかは、その心自身により決められており、誰かに教えてもらうものではない。」

教え、学ぶことは情報伝達です。ですから、情報伝達に依らない体験は教えることが出来ないものです。

さて、驚くべきことが伝えられます。

「その時間は既に定められいる。それはまったく勝手に決められることのように見えてはいる。しかし誰でも、この道を進む時、一歩たりとも偶然に踏み出すことはない。
まだその一歩が踏み出されてはいなくても、既にそれは選び取られている。時間は、一方向へ進んでいるように見えているだけである。」

実際はあらゆることは同時に起こっているのです。

「私たちは既に終わっている旅に出ているに過ぎない。それでも、私達には未知の未来があるように思える。」

このような喩えで考えてみましょう。
1マイルもの長さのタペストリーがあるとします。それは完成品です。その端から端まで歩くのには少々時間がかかりますね。でもあなたが端から向こうの端まで歩くのに時間がかかるからといって、タペストリーがその間、未完であることにはなりません。

私はこの考え方でピンときたのだけど、あなたもそうだといいわ〜!

「時間とは、手品のように巧妙なからくりであり、広大無辺なる幻想である。その中では、まるで魔法のように、人影が現れては去ってゆく。」

これまで何度も、時間と空間とは、幻想の中の架空の分離した自己が作り出した環境であると学んできましたね。

「しかし現象の背後には、変わることのない一つの計画がある。その台本も既に書かれている。あなたの疑いを終わらせる体験が訪れる時も定められている。

私たちは旅の終わった時点から振り返って、その旅を見ているだけであり、もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している。」

これを理解しようとあれこれ考えるのはお勧めしませんね。ただ言えるのは、大きな全体の中では、すべての人が安全でケアされており、いずれはみんなが目覚めるということです。OK?
これは知的に理解できるものではありません。でも、心を癒してくれますね。

「教師は体験を与えることはない。彼はそれを学んで得たわけではないからである。
体験は定められた時間に、自ずと彼に開示されたものである。しかしビジョンは彼が与える贈り物である。」

ビジョンとは何のことだったでしょう。
それはやはり知覚ではありますが、あらゆるものに罪がないことを知っている知覚のことです。私たちのすべての不満、非難が取り払われた時に見えてくるものです。全てが、その愛すべき姿で見えてくることです。これがビジョンを説明する精一杯だわ。

「これなら彼が直接与えることができる。」

なぜかわかりますか?
私たちは絶対に確かに、不満や非難を手放すことが出来るからです。

「キリスト
の智識は失われておらず、」
キリストの智識とは、創造されたままの私たち自身を体験すること。創造主が私たちを作ったときのままのクリエイションであるという智識は失われていないということ。

創造主のクリエイションであるという私たちの智識、キリストは、ビジョンを持っていて、

「誰であれそれを求める者に与えることができる。父の意志の意志は智識の内でひとつにつながっている。だがらそれにも関わらず、ビジョンは存在し、キリストの心にもそれが見えるので、聖霊もそれを見ている。」

キリストの心を別の言い方にすると、被造物、子、サンシップとなります。

「そこにおいて、疑念と影の世界(つまりエゴの世界)が形なきものとつながる。
ここに、世界の中にありながら、赦しと愛(不満や非難を手放すこと)によって神聖になった静かな時間がある。

すべての対立はここで和解する。ここでその旅が終わるからである。体験は、学ばれることも、教えられることも、見られることもなく、ただ存在する。

これは私たちのゴールを超えたものである。それは達成する必要があるものの範囲を超越しているからである。私たちの関心の対象はキリストのビジョンである。」

光、そして無垢性だけをみる。

「これなら、私たちにも達成できる。」

つまるところ、決断を下さなければならないのは私たち自身です。不満や非難を手放すと決めるのです。

「キリストのビジョン(無垢性を見る力)には一つの法則がある。それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。

それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。誤りや哀れな間違いや罪の夢から生じる罪悪感という恐ろしい考えによって曇らされることのない清らかさである。

それはいかなる分離を見ることもない。そしてそのビジョンは、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。」

形は決して真理の前に立ち塞がることは出来ないのです。

「これは教わることが出来るものであり、それを達成したい者は誰でも、それを教えなければならない。
そのために必要なのは、この世界はわずかでもこれに匹敵するような価値のあるものを与えることは出来ないと認識することであり、この世界が掲げる目標はすべて、これが知覚された時にはただ消えてしまうようなものばかりだと認識することである。」

あなたが無垢性を認めたとき、世界の中にある物だけでなく世界が定めたゴールも全て消え去るのです。

「そして、今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、というこのことである。
誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。」

その人は光であり、無垢であり、個人ではなく、聖油で清められた者(キリストのもう一つの呼び名)なのです。

「こうしてその人は自分の罪を赦される。キリストにはすべての罪を看過する力のあるビジョンがあるからである。キリストによる赦し(完全な不満・非難の欠如)の中で罪は消え去っている。

この一なる存在の目に入らないので、罪はただ消えていく。そうした罪を超えたところにある聖性のビジョンが、それらと入れ替わるからである。

罪がどんな形をとっていたか、いかに巨大に見えていたか、それらのせいで誰が傷つけられているように見えていたかは問題ではない。それらはもはや存在していない。

そしてそれらがもたらした結果のように見えたものもそれらと共に去っていき、取り消されるのでらもう二度と生じることはない。

こうしてあなたは、自分が受け取る通りに与えることを学ぶ。こうしてキリストのビジョンがあなたにも注がれる。 

自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。もし彼らが罪のうちに見失われるならば、あなたも同じように見失われる。もし彼の中に光を見るなら、あなたの罪はあなた自身により赦されている。」

覚えていますか?あなたの抱えている不満・非難が、他の人に投影されているだけです。


「今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストのビジョンをあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。」

あなたが、その人に何を見るかを選ぶのです。

「啓示がいつ訪れるかは問題ではない。それは時間に属さないものである。

それでも時間は(私たちが今いる所です)一つの贈り物をもたらしてくれる。その贈り物の中には、真の智識(この知覚の世界を超えたところにある智識)が正確に反映されているので、目には見えないその聖性がその形にも共有されている。」

聖性の臨在をあなたは感じることができます。

「それを表した似姿は、その不滅の愛で輝いている。今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する(無垢性だけを見ます)。そして私たちが与える神聖な贈り物により、キリストのビジョンが私たちの上にも注がれる。」

特に重要なことなのでもう一度お伝えしておきますが、「智識」「知覚」など、コースで使われる用語にあまり頭を悩ませないようにしてください。それはつまるところ、「あなたが自分自身の中に見たいものを、他人の中に見るように練習を重ねる」ということです。その逆も当てはまりますね。

今日も素晴らしい練習となりますように!
明日もやっぱりここでお会いしましょう。
グッバ〜イ♪



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