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#187 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※ ワークブック訳は"There Is No Spoon "https://thereisnospoon.jp/blog-entry-822.html と、「奇跡講座 ワークブック編」(中央アート出版社)を参考にしています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン187 元の講義はこちら→ https://youtu.be/4BdGxsCud3U


ハロー皆さん、今日もようこそ。
レッスン187
私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

このレッスンを要約すると、〈与えるものを得るのである。したがって、祝福・愛・親切を与えれば与えるほど、さらに豊かになる。だからその逆のことはしない方がいい〉(笑)ってことですよ!

さあ、行きましょう。

「持っていなければ、与えることはできません。実際、与えることは所有しているという証拠です。私たちはこの点については既に話してきました。これについて信じることが難しいのは、その点ではありません。何かを人に与えようとするなら、まずあなた自身がそれを所有していなければならないというのは、誰にも疑いようがありません。世界の知覚と真の知覚(真理)が違ってくるのは、その次の段階においてです。

所有した後に与えたなら、あなたは所有していたものを何であれ失ったのだ、と世界は言います。」

あなたがそれを持つと、私にはそれがなくなる。というわけです。

「しかし真理は、与えることは所有しているものを増大させると言うのです。」

これが世界において、最も混乱しているひとつの大きな領域です。もしこのたったひとつの要点を明快に悟ることができたら、ワオ!世界は一変するでしょう。さらにレッスンはこう続きます。

「どうしてこのような違いがあり得るでしょう?もしあなたが有限なもの(見て触れることができるもの)を与えてしまえば、確かに肉体の目はそれを自分のものだとは知覚しなくなります。

しかし私たちは既に、ものはそれを作り出す想念を表現しているに過ぎないことを学んできました。」

いわゆるこの「目に見える世界」においてあなたが見て触れられるものはすべて、自分の心の中にあるものを反映に過ぎないということを覚えていますか?

「そしてまたあなたは、概念を与えればその概念を自分の心の中で強化する、ということを証明する事実に事欠かないはずです。」

もしあなたが誰かに自分の孫がどんなに可愛いかについて話しても、その孫への想いを誰かに与えたからといって、その想いがあなたの中から消滅なんてしませんね。それどころか孫への愛に満ちた想いは、より深く増すだけです。わかるかしら?

「その想念が表されている形態は、与えるときに変化するかもしれません。しかしそれは必ず与える者に戻ってきます。そしてまた、戻ってくる時に、その形態が与えた時よりも好ましくないということはあり得ません。それは間違いなく、より好ましい形で返ってきます。

概念を人に与えるには、この前にまず、あなたがそれを所有していなければなりません(キャロルさん、謎の笑)。

もしあなたが世界を救うというのなら、あなたはまず始めに自分に救済(私たちを平安と赦しに向かわせる概念)を受け入れなければなりません。

しかしあなたは、自分が出会うすべての人にそれが奇跡をもたらすのを見るまでは、それが成されたことを信じないでしょう。」

言い換えると、物事が良くなっていくのを見るまでは、ということですね。

「ここで与えるという概念が明確になり、意味を与えられます。今やあなたは、自ら与えることにより自分の蓄えが増えていることが知覚できるのです。」

自分の善きものが増えていくと同時に、他の人においてもそうだということが知覚できるようになるのです。

「あなたが価値を置くすべての物事を、それらを与えきるという行為によって守ってください。そうすれば、あなたは、自分は決してそれらを失うことにならないと確信するはずです。」

自分の持ち物をすっかり与えてしまうことが私たちの持ち物を安全に保ってくれるなんていう
このような考え方は、私たちにとって全く異質なものですね。ここは本当に理解するのが難しいところです。

「こうすることによって、あなたが自分は持っていないと思っていたものがあなたのものであることが証明されます。

しかし、その形を重視してはなりません。というのも、どんなにあなたがその形をそのままに保とうとしても、時間の中では、形は変化し、見分けがつきにくくなるものだからです。いかなる形も永続することはありません。」

形は夢と同じく、移ろいやすいものです。

「物事の形の背後にある想念こそが、変わることなく生き続けるものなのです。喜んで与えなさい。与えることによって、あなたはただ得ることしかできないからです。

形の背後にある想念は残り、与えることによって強化されて、さらに強力なものとなります。想念は失われることがないので、共有されるとき延長されます。

この世界で考えられているような意味においての「与える者」と「受け取る者」は存在しません。(実相において)存在するのは、与えたものを所有し続ける「与える者」と、同じく与えるようになる別の「与える者」がいるだけです。

そしてこの交換においては、必ず両者が得ることになります。なぜなら、各自は最も自分に役立つ形でその想念を持つことになるからです。失ったように見えるものは、いずれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりなのです。

あなたはただ自分自身にしか与えられないということを、決して忘れないでください。

与えることの意味を理解する者は、犠牲を払うという概念を笑い飛ばすに違いありません。

そして、与えることの意味を理解する者は、犠牲がどれほど多様な形をとろうが、見分け損ねることはありません。」

私たちが犠牲と言う時、何かが自分から奪い取られた、あるいは失ったと考えますよね。したがって、次のように続きます。

「私たちは犠牲と同じように、苦痛や喪失、病気や悲嘆、貧困、飢餓や死といったものも笑い飛ばします。」

誰かがコースの途中にやってきて、こうしたことを笑い飛ばすべきなんて読んだら、絶対に混乱するでしょうね!でもこれは全く別の観点からものごとを見ているのです。ここでは、

「私たちは常にこうしたものすべての背後に犠牲というひとつの概念が存在することを見極めているので、私たちの優しい笑い声の中で、それらはみな癒されます。」

何らかの方法で私たちが何かを失ったり、私たちから何かが奪い去られるということは、あり得ません。なぜなら、私たちが持っているものは私たちが与えるものであり、それを管理しているのは私たち自身だからです。

「幻想だと見破られたら、幻想は必ず消え去ります。苦しみを受け入れてはなりません。受け入れなければ、あなたは苦難の想念を取り除くことになります。
あなたがすべての苦しみをありのままに見ることを選択するなら、苦しむ者たちみんなに、あなたの祝福が注がれます。」

これはすべて自分が作り出したことだ!と見破ることよ。

「犠牲という考えが、苦しみだと思えるものにあらゆる形を生じさせるように見えるのです。」

犠牲とは私が「持っていない」と思うことであり、レッスンはこれがあまりにもおかしな考えだと言っています。

「そして犠牲というのはあまりに狂った考えなので、正気の心はたちどころにそれを退けます。」

私たちが正気でないのは明らかです。私たちは自分の悩み、苦しみはすべて本物だと思っています。犠牲を払うことが常に求められていると考えています。
わかりますか?私たちはここでも、実相から180度ひっくり返った物の見方を採用してしまってるんですね。

「犠牲を払うことが自分にはできるなどと決して信じないでください。少しでも価値のあるものには、犠牲の入りこむ余地など一切ないのです。もし犠牲という思いが浮かんだら、まさにその概念の存在自体が、誤りが生じていて訂正がなされるべきことを証明しています。」

ここでの誤りとは、与えるというプロセスを通して持つことができるという事実に責任を取らないことを意味します。

「あなたの祝福が、犠牲という誤った概念を訂正するでしょう。祝福はまずあなたに与えられているので(祝福は終わりなく与えられています)、今度はあなたが同じように与える番です。
犠牲や苦しみがいかなる形をとろうとも、自分自身を赦して祝福した者の面前においては、どんな犠牲や苦しみも長く持ちこたえることはできません。」

自分自身の中に不満や非難を見ないこと、そして他人の中にも見ないことを決めた場所、自分や周りの人々に愛とあらゆる美しい善きものを差し出す場所の中で、犠牲が入り込むよちがあるでしょうか?どこにもありません。

「あなたの兄弟があなたに差し出してくれる百合の花は、あなたが彼に捧げる百合の花と一緒に、あなたの祭壇に供えられます。」

百合の花とは、復活についての章(訳注:テキスト第20章のことと思われます)にあるように、赦しの想念のことです。兄弟が差し出す百合の花とは、兄弟があなたを祝福すると決めること、そしてそれによって自分自身に祝福を贈ることです。もちろんここでの百合の花や祭壇といった言葉は比喩的表現ですが、お分かりですよね。

「いったい誰が、これほど美しくて神聖なものを見るのを恐れることができるでしょうか。あなたがここで見ることになる清らかさを前にして、神への恐れという大いなる幻想は縮小して無に帰します。」

神への恐れとは、〈もし私たちが愛してしまったら何かを失ってしまう〉という思いのことです。

「見ることを恐れてはなりません。あなたが見ることになる至福は、形についてのすべての思いを取り去り、その代わりに、永遠に増加し続け、永遠にあなたのものであり、永遠に与えられ続けるように、永遠に完璧な贈り物を残すでしょう。

今こそ、私たちは思いをひとつにします。恐れが去ったからです。

ここにおいて、唯一のにして、唯一の創造主であり、唯一の想念である一なるに捧げられた祭壇の前において、私たちは一なる神の子としてともに立っています。」

祭壇とは私が価値をおき、崇拝しているものを指します。

「私たちのであるから離れることなく、私たちの一なる自己の一部である兄弟からも離れていません。私たちの自己の潔白さは、私たちをひとつのものとして結びつけ、至福の中にあり、自分たちが受け取る通りに与えます。
私たちは、神の名を口にします。そして内側を見るとき、私たちが父の愛を反映し、天国の清らかさに照らされて輝いているのを目にします。

今、私たちは祝福されています。そして今、私たちはこの世界を祝福します。
私たちは自分の見たものを拡張するつもりです。なぜなら、私たちは、祝福をあらゆるところに見たいからです。誰もがの恩寵とともに祝福されて輝いているさまを見たいのです。
私たちは、自分の見る何ものにも、神の恩寵が与えられないままにさせたくはありません。」

もっと沢山与えられるとわかっているのに、隠しておこうなんて思いませんね?

「そして、この神聖な光景が確実に自分のものとなるように、私たちは、自分の見るすべてのものに祝福を差し延べます。

私たちがこの神聖な光景を見る場所で、私たちが贈る祝福は自分の祭壇に供えることができる百合の花(赦し)の形で私たちに与え返されます。

その場所は、私たちの内に留まり、私たちに自らの聖性を私たちのものとして差し延べてくれる無垢なる存在そのものの住処となるのです。」

このレッスンの教訓は、〈与えましょう。もしあなたがそれを持っていないと思うなら。もしそれがモノなら、それもいいでしょう。それはまたあなたからの祝福や愛、赦し、時間、注目、微笑みかもしれません。あなたが差し出すものは何であれ、それをさらにもっと受け取ることになるでしょう。〉

一日を通して練習してください。そして何が起こるか楽しみに。

バ〜イ、また明日♫


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