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#134 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

キャロルさんの奇跡講座レッスン134

元の講義はこちら→ https://youtu.be/JKnKMh7u3ZE


※今日のレッスンは長いです〜。今日中に訳は無理かと思った…何とかやり遂げたわたし、めちゃくちゃ偉いです。褒めて!しかし、明日はワークブックの中で一番長ーーーいレッスンが待ち構えています。もしかしたら明日中に投稿できないかもしれない。明日の自分に任せよう。では、レッスン134をどうぞ!
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皆さん、ようこそ。
レッスン134
「私が赦しをありのままに知覚できますように。

今の今まで、私たちは赦しが何のことだか、さっぱりわかっていなかったんです。

昔々に赦しとはこういうものだと学んできたことは、まったく間違っていたというわけ。なので、きちんとそれが何であるのか、整理しないといけませんね。

さあ、始めますよ。
「『赦す』ということの意味を見直してみよう。
この概念は歪曲されがちであり(ホントそうですね)、正義の怒りが不当に犠牲にされるもの、正当性のない分不相応な贈り物、あるいは真理の完全な否定として知覚される傾向がある。」

私たちは、悪者は誰で、善良な者はどちらかを知っていて、自分が解決できると思い込んでいる、というわけです。

「そのような見方によれば、赦しは単なる常軌を逸した愚行のように思われ、このコースが、まるで気まぐれを救済の拠り所としているように見えるに違いない。」

もし赦しが、容赦してやること、妥協してやること、ひどい振る舞いに対して折れてやること、あるいは大目に見てやることを拠り所にしているとすれば、「そんなことには関わりたくない」とあなたは思うはずですね。

「こうした赦しの意味についての歪んだ見解は、真実なるもののために赦しが求められているのではないという事実を受け入れるとき、容易に正される。
赦しは偽りのものだけを対象としている。」

私たちのお決まりの振る舞いの数々は、私たちの真実の姿ではないのです。

レッスンは、赦しは「幻想以外のものには無関係である」と言います。幻想、幻覚以外のものとは無関係なのです。

以前にお伝えしたことがあるかもしれませんが、私の兄はその晩年に、パーキンソン病を患っていました。
彼は部屋の中に大勢の人たちがいるのを見ていましたが、それは実際、そこには存在しない人たちでした。

ですから、幻覚を手放すという考えが馬鹿げているというのは間違いです。妄想の中の誰かとやり取りしているなんていう幻覚を手放すのは、極めて合理的なことです。

「真理は愛が創造したものであり、それを赦すというのは無意味である。

すべての真理は愛に属し、愛の法則を反映し、愛を放射する。」

これらはすべて、ワンネスであり、全てが包括されていて、繋がっているということですね。この言い回しだと何か二つのものが合わさったように聞こえてしまいますが、元からひとつのものです。

もし不当な扱いを受けたと感じるとしたら、そこには相手というものが発生し、二人が必要となります。悪者に仕立てるための相手が必要となるのです。

「これが赦しを必要とするだろうか。罪がなく永遠に善良なものを、どのようにして赦すというのだろうか。」

「あなたが純粋な赦し(つまり純粋に不満を手放すということ)について感じる主な難しさは、赦すべき対象が幻想ではなく真実であると、あなたが信じていることから生じる。」

あなたは誰かについて、その人のプレゼンスよりその振る舞いのほうを重視しているのです。

「あなたは赦しを、存在するものを見過ごそうとする無駄な試みのように考えている。

すなわち、真実を無視し、幻想を真実に仕立て上げることで自分を欺くという不当な努力を強いるものと思っている。」

私たちは実際には幻想の中に存在しません。そのように見えても、本当は違います。

「この歪んだ視点は、自分自身を見る際にあなたの心がいまだに罪の概念に掌握され続けていることを反映している。」

言い換えると、私たちが本当に望んでいるものは、いわば「二つの世界のそれぞれの最も良い部分」であり、そこでは私たちは分離した振りができ、また同時に無垢であることができるというものです。

「あなたは自分の罪が実在すると考えているので、赦しを欺瞞と見做す。罪が真実であると考えていながら、赦しが偽りだと信じずにいることは不可能である。」

罪とは実相を歪め、最悪の状態に変えてしまったことであり、しかも赦しが偽りであると信じていない状態のことを言います。

「そうなると、赦しは、実際には罪にほかならないということになってしまう。

赦しは真実を偽りだと主張し、不正行為に対し、それがまるで植物のように無害で、雪のように純白であるかのように微笑みかける。

赦しにより達成されると思われていることは、妄想に過ぎない。赦しは、明らかに誤っているものを正しいと見なし、忌まわしきものを善きものとして見ようとする、ということになる。」

つまりもし罪が実在して、実際に何かをダメにしてしまったとしたら、それは全くの嘘、ということです。
ですから、何が起こったかもわからずにそれを赦そうとするなんて、訳がわからないということになってしまいます。

「そのような見方をするなら、赦しは何の脱出手段にもならない。それは単に、罪というものは、赦すことはできないものであるということの、さらなるしるしでしかない。」

私たちは罪を単なる過ちでなく、真理を実質的に変えてしまったものとして見做すことになります。それが、私たちが罪だと見なしていることです。

「罪というものは、せいぜい隠したり、否認したり、別の名前で呼んだりすることができる」ものと見なすけれど、「赦しは、真理に対する裏切りとなる。」

エゴにとっては「罪悪感が赦されることは不可能である。「もしあなたが罪を犯すなら、あなたの罪悪感は永遠に続いていく。」

それによってエゴは安心し、存続します。罪悪感はエゴにとってのエサなのです。だからエゴは罪悪感を手放そうとしません。
だからこそ、エゴは不平不満を手放して赦すことに関心はありません。それは不平不満が大好きなんです。

「自分の罪が実在するという見地から赦される者は、哀れにも侮られ、二重に咎められている。
すなわち、まずは自分で犯してしまったと思っている事柄について自分自身から責められ、さらに彼を赦す者により、もう一度責められる。」
彼を赦す者が「さあ、お前を赦してやろう、そうすれば私はお前より一段上にいられる」ということにより、さらに貶められるんですね。

「罪の非実在性が、赦しを自然で完全に正気なものにする。赦しを与える者に深い安堵感を、赦しを受け取る者には静かな祝福をもたらす。」

与えることと受け取ることは同じことですから。

「それは幻想を黙認することはないが、それらを軽く笑いながら(「あら、これはリアルじゃないわね」と言って)拾い集め、そっと真理の足元に置く。
そしてそこで幻想は完全に姿を消す。」

幻覚の中では、実際には何も起こっていません。すべては妄想の中で起こっている出来事です。

「赦しは、この世界の幻想の中で真理を象徴する唯一のものである。

それは幻想の虚無性を見て、それらが纏う数限りない形態を素通りする。

嘘を見ても、騙されることはない。罪悪感て気がふれた罪人たちの自責の叫び声を、気にかけることもしない。」

コースは私たちが自分たちの罪悪感によって狂気に駆り立てられていることを確認させてくれます。私たちは自分たちが自分自身と他の人々に対して犯してしまったと感じている事に、あまりにも恐怖を感じてしまっています。

しかしレッスンは、このように述べています。真理はただ単にこれらを静かな眼差しで見つめ、「ただ彼らに向かって、『兄弟よ、あなたが考えていることは真理ではない」と言うだけである。」

すべての人の悪い行い、あなたも私も他のすべての人を含めて、それらはこの罪悪感によって駆り立てられているのです。

「赦しの強さはその正直さにある。それは少しも腐敗していないので幻想を幻想のままに見て、真理と見ることはない。

だからこそ、それは嘘を前にして欺瞞を解消し、真理を取り戻す大いなる復元者となる。

真に存在していないもの(笑)を見過ごす能力により、罪悪感の夢により阻まれていた真理への道を切り拓く。」

人々、あらゆる物事、そうした個別の分離したの形は、単に夢なのです。
夢の中で起きる出来事によって、私たちは危害を受けるということはありません。

「そうしてあなたは、自らの真の赦し(不満を手放すこと)が、自分の前に開く道を自由に進めるようになる。

もしひとりの兄弟があなたからこの贈り物を受け取るなら、あなた自身に向かって扉が開かれるからである。」

もしあなたが他人を責めないと決めたなら、そしてその非難は相手のプレゼンスではなく、常に相手の振る舞いや発言を咎めるものだとしたら、非難するのをやめる時、あなたに向かって扉は開かれるでしょう。

「真の赦しへの扉を発見し、それがあなたを歓迎して大きく開かれるのを知覚するために、非常に簡単な方法がある。

自分が何らかの形の罪について誰かを責めたいという誘惑にかられるのを感じるとき(罪というのは真理を壊したということですね)、彼が行ったとあなたが思うことについて、心の中で考え続けてはならない。そうすることは、自己欺瞞である。

その代わりに、「私はこれと同じことをする自分を、責めたいだろうか」と自問しなさい。」

あなたは「ええ、私はそんなことをする自分を責めたいと思う」と言うかもしれませんね(笑)まだ自分を罰する必要があると感じているかもしれません。

でも、ここでの正解は、「NO、私はこれに関して自分を責めたりしない」です。

これは、悪い行いを否定するものではありません。私たちは時々、悪い行動をとるものです。これは自己を罰するのをやめ、その代わりにその行いを正す選択をする、ということなんです。

こうして、あなたが目にするすべての「罪」を違う見地から見ることができるようになれば、意味ある選択を可能にする見地から、二者択一の選択肢を見ることができるようになるでしょう。

そしてあなたの心は罪悪感と苦しみから自由にしておけるようになるでしょう。
神自身、愛自身が意図したように。そして、真理において実際そうである通りに。

私たちはいつも、自分の中の恐れを他の人の中に見ているために、他の誰かについて話していても、それは常に自分自身について話しているのです。ですから、そこを手放せば、もうそれはそこから無くなります。完了です。

「虚言のみが有罪宣告をする。

真理においては、無垢性のみが、存在するすべてである。

赦し(そう、不平不満を手放すこと)は幻想と真理の間に位置している。

あなたが見ている世界(私たちの通常の、時間と空間の、分離した物事の世界)とそれを超えた世界の間、すなわち罪悪感の地獄と天国の門の前に掛かる橋である。」

不平不満を手放すことが、私たちが通り抜けていく門、または私たちが通り抜けなければならない壁なんです。

不平不満が、私たちがここに閉じ込めるための壁を作っています。それを手放すことが、私たちがここから出るための鍵であることは明らかです。

さて、レッスンはこう続きます。
「この橋を渡って」つまり、不平不満と分離の感覚を手放す選択をしたところに、「愛と同じように強力であり、すべての悪の夢や憎悪と攻撃の夢が、静かに真理へと運ばれる。

こうした夢は保持されず、膨れ上がって猛り狂ったり、夢を信じる愚かな夢想者をこわがらへたりしない。」

私たちが幻覚を見ているとき、それを本物だと信じて恐れます。しかし今、そんなものは一度も存在しなかったと理解することにより、私たちはそっと夢から目覚めるのです。
私たちは単にもう、その夢を見ることはないのです。

私たちの時間と空間の世界において、いったん私たちが不平不満を手放し、また自分の習慣となっている特定の振る舞いを手放せば、もうそれらを見ることはなくなります。

ちょっと思い出したのですが、私が妊娠中に、妊娠している女性ばかり目にしました。でも妊娠していない時には、全く妊娠中の女性を見かけなかったんです(笑)
ですから、選択的知覚がはたらいていたんですね!

「そしてもはや、自分には脱出の道がすべて閉ざされていたとは感じられない。

彼は(これは私たち全員のことです。ですから、これを「私たち」と言い換えましょう)自分たちを救うために戦う必要はない。
私たちは自分たちを追いかけてくると思っていたドラゴンを殺さなくてもよい。
また、以前には自分の安全を守ってくれると思っていた頑丈な石壁な鉄の扉を建てる必要もない。

自分の心を恐れや惨めさでがんじがらめにしていた重たいだけで役立たずの甲冑を脱ぎ捨てることができる。」

わかりますか?
私たちは自分が罰せられるに値すると考え震え上がり、自分の身を守ろうとしていたんです。

「足取りも軽く私たちが一歩前進するたびに、跡には星が一つずつ残り、後に続く者たちにその道を教える。」

まだ後には疑問を抱いている人たちがいるということですね。

「赦しは練習されなければならない。世界は赦しの意味を知覚できず、」
私たちは自分の不平不満を手放すことが赦しだとわかっていないのです。
そして赦しとは自分にもともと備わっていないため、練習が必要だと以前のレッスンで学びました。

「その恩恵をあなたに教えるためのガイドを提供することもないからである。

赦しが従う法則の理解につながるような考えも、赦しが反映する一なる想念、つまり愛の想念も、世界中のどこを探しても見つからない。

赦しはあなた自身の実相と同じように、この世界にとって異質のものである。」

私たちはこの世界にとって、エイリアンなんです。

「しかしそれは、あなたの心をあなたの内なる実相と一つにつなぐものである。」

この不平不満の法則は、手放さなければならないのですね。

さて今日、私たちは、真の赦しを練習します。
合一の時、ワンネスを認識する時間を、これ以上遅らせてはなりません。

「私たちは自由と平安のうちに、自らの実相に出会いたいからである。 
私たちの練習は、すべての兄弟のための道を照らす足跡となり、彼らは私たちと共有する実相に向かって私たちの後に続くだろう。」

言い換えると、私たちの一人に奉仕することは、私たち全員に奉仕することにつながるのです。

「これが成し遂げられるように、今日は15分の練習を2回行う。」

その時間は、赦しを実際に理解していてそれを私たちに教えるために送られたガイド、私たちの直感である聖霊とともに過ごします。

聖霊、あなたの直感に、心を鎮めて次のように頼んでください。

「赦しとは何でしょう?私は本当に知りたいのです。」

それから、特定の指示に従います。
直感に従って兄弟のひとりを選び、心に浮かぶままにその人の「罪」を、一つ一つリストアップしていきます。

そのいずれにも拘らないように。「あなたは、すべての罪の概念から世界を救うために、彼の『不愉快な行為』を用いているだけだということを実感する。」

つまり、この人に関してあなたが何が問題だと感じているとしても、それは贈り物であり、学びのための要素だということです。

ですから、「あなたがその人について思ったすべての邪悪な事柄をざっと考慮し、そのたびに、『私はこれと同じことをする自分を責めたいと思うだろうか」と自問」してください。「私はこのことについて、このままずっと、惨めな気分でいたいだろうか?」と。
きっと答えは「NO」ですよね。
もうこれ以上、惨めな思いはまっぴらです。

「彼の中にある罪についてあなたが抱いていたすべての考えから、彼を自由にしなさい。」なざならそらは、あなたが自分自身に対して抱いていた考えだからです。それらは、自分に対して抱いている不満なのです。あなたはそれを他の人の中に見ていたのです。

そうすれば、あなたは自由を得る準備が出来たことになります。

もしあなたが喜んでここまで練習してきたなら、引き上げられるような感覚や、胸の奥が軽くなるような感覚や、(キャロルさん、深い呼吸)深く確かな安堵感などを感じ始めるだろう。

その後は残りの練習時間に、兄弟を縛りつけようとして実は自分自身を縛ってきた重い鎖からの脱出を体験しよう。」

あなたは自分自身の内部で自分に対して行っていたことを、外に見出していたのです。

「赦しは1日を通して練習されなければならない。あなたが赦しの意味を忘れ、自分自身を(そして他人を)攻撃するときは、これから何度もあるだろう。
そういう時には、次のように自分に言いながら、あなたの心がこの幻想を看過することができるようにしなさい。」

「私に、赦しをありのままに知覚させてください。
私はこれと同じことをする自分を責めたいだろうか?
いいえ!
私はこの鎖で自分を縛るつもりはない。」

覚えておいてください。
あなたが自分を鎖で縛る時、自分の子供を縛ることになり、自分の最も愛する人を縛ることになり、全世界を縛り付けることになるのです。

そんなことをしたいと思いますか?

何をするときも、次のことを思い出すように。

「誰もひとりで十字架にかかることはない。」しかしまた、誰も一人で天国に入ることはできない。」

十字架にかかるとは、私たちの分離した状態のことであり、天国とはまさしく、私たちが、ひとつになった状態のことですね。

私たちが行うひとつひとつが、あらゆることに影響を及ぼすのですよ。

本当に素晴らしい練習時間にしましょう。
これらは特に長く、大事なレッスンになっています。次回もまさにそうなのよ!

美しい1日をお過ごしください。
バ〜イ♪


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