#184 キャロルさんの奇跡講座レッスン
奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪
※ ワークブック訳は"There Is No Spoon "https://thereisnospoon.jp/blog-entry-822.html と、「奇跡講座 ワークブック編」(中央アート出版社)を参考にしています。
キャロルさんの奇跡講座レッスン184 元の講義はこちら→ https://youtu.be/yXpHTZqCTdU
親愛なる皆さん!レッスン184ですよ。
昨日のレッスンからの続きとなります。
神の名こそ、私が受け継いだものである。
神の名とは愛、統合、ワンネスのことですね。そして受け継いだものとは、継承したものという意味ですね。
さてレッスンはこのように始まります。
「あなたは象徴によって生きている。あなたは自分が見ているものすべてに名前を作り出しました。そのひとつひとつがそれ自体の名前により識別される分離した存在となっています。」
これは椅子、これは手、これは食洗機、といった具合にね。
「そうすることで、あなたは一体であるものからそれを切り取ることになります。そうしてそれに特別の属性を定め、それを取り巻く空間を強調することで、それを他のものから区別します。」
そうですね、食洗機でやる事と手を使ってやることは別物ですよね。
「あなたは、すべての物事の間にこの空間を置いて、それぞれ異なった名前を与えます。すべての物事の間というのは、場所と時間の観点で生じるあらゆる出来事や、名前によって接触し合うすべての身体たちの間のことです。」
つまり私たちはそこに大きな空間が広がっていて、その中にちっぽけなものたちが散らばっていると考えているんですね。
「すべての物事を別のものから切り離すものとあなたがみなしているこの空間という手段によって、この世界を知覚できるようになります。
あなたは何もない虚無の場所に何かを見て、」
要するに、幻覚を見ているんです。
「同じように、一体性のあるところに無を見て、」
実際には一体性を経験できるはずです。
「すべての物事の間やすべての物事とあなたの間に空間を見ています。こうして、あなたは自分が分離に生命を与えたと思いこんでいます。この分割によって、あなたは、自分が一個の独立した意志を持って機能する統一性を持った存在として確立されたのだと思いこんでいます。」
私は空間の中をあちこち駆け回って、自分が選択したものなんでも出来ると思っているんですね。
「この世界を個々に独立した出来事と統一性のない物事、分離した意識としての心の断片を宿す隔絶した身体たちの寄せ集めにしてしまう、これらの名前とはいったい何なのでしょうか。
あなたはこれらの名前をそのような物事に与えて、自分が知覚したいと願うとおりに知覚を設定しました。」
知覚とは、私たちの外側の世界において見たり聞いたりするものです。
「名もなきものに名前が与えられ、名づけられることで、それらのものに現実味が与えられました。というのも、名づけられたものは意味を持ち、したがって、それ自体に固有の結果をもたらす、真の結果を生む原因である有意義なものとみなされるからです。
これが、所与の真理に対して意図的に偏った視点を対立させることによってリアリティーが付与される仕組みです。この偏った見方にとっての敵は、全体性です。」
私たちは全体性を恐れます。
「この偏見は取るに足らないものを思いつき、取るに足らないものを目にします。そして、隙間がない状態や統一の感覚、偏見とは違った見方をするヴィジョンは、偏見にとっては脅威となるので、争って否認して打ち負かすべきものとなります。」
これが、部分的な視覚が幻想を見るという問題となっています。
「しかし、このもうひとつのヴィジョンこそがなおも、心にとって、その知覚を伝達する自然な方向であり続けます。」
これはものごとの全一性を見る能力のことです。
「心にたくさんの相容れない名前を教え、さらに何千もの名前を教えこもうとするのは過酷なことです。
それでも、あなたは、これこそ学習の意味であり、学習が持つ唯一の本質的な目標であり、それによってコミュニケーションが達成され、概念が有意義に共有されうるのだと信じています。」
赤ん坊に最初に教えることは、その子の名前であることを知っていますね。それから、これはリンゴ、あれは椅子、といったように教えます。私たちは非常に幼い時からものごとに名前をつけることに関わり始めるのです。
「無数の名前を覚えこむことこそが、この世界が授ける遺産の総計です。そして、学習によってこれがその通りだと思いこんでいる者たちはみな、この世界は本物だと断定する印や象徴を受け入れます。それらの印や象徴の役目は、この世界が現実だと信じさせることだからです。」
言い換えると、それによって世界をリアルにするということ。
「印や象徴は、名づけられたものが存在することに疑問の余地を与えません。名前をつけられたものは、期待どおりに見えるようになります。
名づけられたものこそが究極的な現実となるので、名づけられたものの真実性を否認するものは幻想にすぎないことになります。
名づけられたものの現実味を疑うことは狂気であり、その存在を受け入れることこそが正気の証しとなります。」
さて、ここでもまた、私たちが全てを逆転して見ていることがわかります。
「この世界が教えこんでいるのは、こんなことなのです。世界によるこの教育は、この世界にやってくる者みんなが必ず履修することになる学習課程です。
しかし、この世界の教育が何に依拠しているのか、その前提がいかに疑わしいものなのか、その結果がどんなに怪しげなものか早く気づけば、それだけ早くその教育の結果に疑問を抱くことになります。」
これはちょっとおかしいぞ、もっと何かあるんじゃないか?と考え始めるわけですね。
「この世界の教えこもうとするところで学びが止まるなら、学習は意味にまで到達せずに止まってしまいます。この世界の学びも、正しく配置されるなら、もう一つの学びが始まる新しい出発点となります。そこを起点として知覚を獲得できるようになり、この世界が割り当てたでたらめな名前のすべてに疑問を呈して撤回できるようになるのです。
自分が世界を作り出したなどと考えてはなりません。さまざまな幻想なら確かに作り出しました!
しかし、あなたがそれをどう名づけようが、天と地において真実であるものは変わらないままです。あなたがある兄弟に呼びかけるとき、あなたは彼の身体に訴えかけています。あなたが彼の本質が身体だと信じていることによって、あなたには兄弟が本当は何者なのかわからなくなってしまいます。
あなたが彼と呼ぶものに対して彼の身体が反応します。というのも、彼の心はあなたが彼のものとして彼に与える名前を受け入れることに同意するからです。
こうして彼の一体性は二重に否定されます。あなたは彼を自分とは分離したものとして知覚し、彼はこの分離した名前を自分のものとして受け入れるからです。
もしあなたがこの世界のあらゆる象徴を超えて進み、それらの象徴を永遠に忘れてしまうことを求められながら、それでいて、なお教える役目を引き受けるように求められるとしら、それは実に奇妙なことになります。
あなたはしばらくの間は、この世界の象徴を用いなければなりません。しかし、象徴を用いはしても、象徴に欺かれてはなりません。
象徴は、何事もまったく表してなどいないからです。そして、このことをあなたが練習することで、この考えがあなたを象徴から解放してくれるでしょう。
象徴は、あなたがこの世界にも理解できる方法でコミュニケーション/親交を図るための手段にはなります。しかし、象徴という手段によってあなたが認識するのは、真のコミュニケーション/親交を見出すことのできる一なる状態とは異なります。
したがって、あなたに必要なのは、毎日、この世界という舞台に幕を下ろす幕間(まくあい)を持つことです。そうすれば、この世界での学習は束の間の拘束を受けるだけの時間となり、幕間には、牢獄から日の当たる場所に出て闇のことを忘れられるようになります。
この休止時間において、あなたは真の言葉、神があなたに授けた名、万物が分かち合うひとつのアイデンティティー、真実であるもののひとつの承認を理解します。
それから、あなたは闇の中(幻想、『普通の世界』だと私たちが思っている場所)へと戻りますが、それはあなたがそれを現実だと思っているからではなく、ただ、闇が支配する世界の中でも依然として意味を持つ言葉によって、闇が実在しないと宣言するためでしかありません。」
分離の世界ではない他の何かがあるということを、語ることができるという意味ですね。
「いくらでも闇の世界を描写する取るに足らない名前や象徴を使ってかまいません。ただし、それらを自分にとっての現実として受け入れてはなりません。
聖霊がそれらの名前や象徴のすべてを用いてくれます。しかし、創造物がひとつの名前とひとつの意味しか持たず、万物を自らの内に統合する単一の源しか持たないということを聖霊が忘れることはありません。」
私たち皆がこの、ワンネスです。私たち皆がこの一体性の中にいて、ただその中で自分の観点から体験が起こっているです。
「ただ便宜上のものとして、この世界があらゆるものに割り当てたすべての名前を使ってかまいません。ただし、あらゆるものがあなたとともに、神の名を分かち合っていることを忘れないでください。」
あらゆるものの実相は、愛でしかありません。そしてあなたもまた、それなのです。
「神はいかなる名も持ちません。」
ジョー・スミスさんとかでは無いのよ。
「それでも、神の名は、すべてのものがひとつであると学ぶ最終レッスンとなり、そして、このことを学ぶことで、すべての学びが終わります。すべての名前が統合されると、すべての空間は真理の反映で満たされます。あらゆる隙間が閉じられ、分離は癒されます。
神の名(統合性、愛、ワンネス)は、天国の座(ひとつになること)を奪うために作り出されたこの世界の教育を選択した者に、神が相続させたものです。
この練習の目的は、あなたたちの心が、神の愛し子にふさわしい貢物であるかのようにあなたが作り出したお粗末な遺産に対する答えとして、神が与えてくれたものを、私たちの心に受け入れるようにすることです。
神の名の意味を探し求める者は、誰も失敗することはありえません。神の言葉を補い裏づけるような体験が必ず訪れるからです。
しかし、まずあなたは、すべての実相を表すひとつの名前を受け入れなければなりません。
そして、実相のさまざまな側面にあなたが割り当てた数多くの名前は、あなたに見えるものを歪曲してきたけれど、真理を妨げることはまったくなかったことを悟らなければなりません。
練習では、私たちは、ひとつの名前だけを用います。私たちはひとつの名前だけを用いるのは、自分たちの視覚を統一するためです。
私たちは神の子の側面として認識されるものの一つひとつに違った名前を用いますが、それらは神が与えたひとつの名前しか持たないことを理解します。私たちが練習で用いるのは、この名前です。
この名前(ワンネス)を用いることを通して、私たちを盲目にしてきたすべての馬鹿げた分離の数々は消え去ります。そして、私たちには分離を超えて見る力が授けられます。いまや、私たちの視覚は、私たちが受け取ると同時に与えることのできる恵みによって祝福されます。」
そして最後に、この祈りによって締めくくります。
父よ、私たちの名はあなたの名です。あなたの名において、私たちは、生きとし生けるものと、そして、それらの唯一の創造主であるあなたとひとつに結ばれています。
私たちの作った数多くの異なった名前で呼ばれるものたちは、単にあなたご自身の実相を遮ろうとして私たちが投じた影でしかありません。
そして、私たちは、自分たちが間違っていたことを喜び、感謝します。私たちが、自分たちの誤りが引き起こしたように見えるすべての結果から解放されるように、私たちのすべての間違いをあなたに捧げます。そして、自分の間違いのすべてに代えて、あなたの授けてくれる真理を受け入れます。
あなたの名こそ、私たちの救済であり、私たちの作り出したものからの解放です。
あなたの名が、私たちの受け継ぐものであり平安である一体性へと、私たちを結びつけるのです。
アーメン。
祝福に満ちた一日を送ってください。
また明日も会えるのを楽しみにしています。
ではまた♪
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