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#251 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※ ワークブック訳は「奇跡講座 ワークブック編」(中央アート出版社)を参照しています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン251
元の講義はこちら→https://youtu.be/AySvMq1ocis?si=I_XcLhrbiginjNER


※今日は途方もなく長いです。もう一度言う。とんでもなく、長いです。3時間弱かけてもキャロルさんの喋る5分間しか訳せないくらい、ぎゅぎゅっと詰め込まれています(泣)コレ仕事なら丸1日〜3日かけるやつ(引用部分除く)。完璧ではない翻訳だとしても、私えらい!ていうか、誰にも頼まれてなく好きで訳してるから別に偉くなかった🤣❗️でもねぎらってやってください🍬では、どうぞ!

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ハーイ皆さん!
この素晴らしいワークブックの、250ものレッスンをやり抜きましたね!
おめでとう🎉

先に進める前に、ちょっとした復習をしようと思うの。ワークの復習ではなく、私の振り返りと、あなた方のお祝いのために😉

奇跡のコースは心理学的にとても素晴らしいワークです。それは私たちに、客観的世界において自分がどこにいるのかを示してくれるものであり、自分が自分のことを何ものだと思っているのかに気づかせてくれるからです。つまり私たちは自分のことを、他とは分離して、繋がりのない、互いに分断された人/ものであると考えています。しかしそれは全く真実からかけ離れています。
コースはその最初の段階ではまだ、私たちが不当な罪悪感により完全に狂ってしまっていること、そして私たちが実際、真実から遠く離れてしまっていることに全く気づいていないのだということは明かしませんね。

私たちの知性がまだ受け入れる準備ができていないために、コースの最初の段階では、私たちに事実が明かされることはまだありません。そんなことをすれば、私たちはたちまち恐怖に陥ってしまう恐れがあるからです。(もう既に恐ろしい場所にいるというのにね!)
そうなると、そこから先には進もうとはしないでしょう。

さて、コースの最初に述べられていない事実とは、私たちは実は個人ではないということです。私たちは分離していません。身体は私たちを表すものではありません。私たちそれぞれ、一人一人は、源、ソース、神、大いなる神秘、創造主など、呼び名は何でも構いませんが、それが体験している経験なんです。
体験の一瞬一瞬を、創造主が経験しているのです。それぞれの体験が終わると、全ては潜在性の中に溶けて戻っていくのです。現実化された物事は、私たちが考えているような客観的方法で継続してはいません。素晴らしいことに、科学はその事実に追いつこうとしています。
最初にそんなことを言ってしまったら、人々は「そんなのおかしい!私は他の人とは違う個人だ。見てみればわかる、当然でしょう!私たちの間にはスペースがある。」と言うでしょうね。私たちは自分たちの知覚にあまりにも信を置いていますから。
そしてきっとこう言うでしょうね。
「そんなの知ったこっちゃない!こっちは自分の問題で手一杯なんだ。金を稼がなくちゃいけないし、娘はドラッグの問題を抱えているし、親が認知症になりかけていてどうしようもないから施設を見つけなきゃいけない。「私」とは何かについてのコースの説明は間違っているし、こっちの抱えている問題の解決には全くなりゃしない!」
そしてこの本を投げ捨てるでしょうね(笑)!それでお終い!ですからこの本はとても独創的なやり方で、非常に間接的に導いてくれているわけです。

ワークブックは、その最初の部分では、〈まるであたかも〉私たちが切り離された別個の人間であり、客観的な時間と空間の連続性の中にいるという信念に同意するような体裁をとっています。何かあるモノが生じたら、それはそのまま何千何万年もそのようであり続ける、といった観念を私たちは固く信じていますからね。

ですから最初はとても短くて、私たちの信念に反しないような簡単なレッスンから始まるわけです。ほんの1、2分、焦点をこれまでと違ったところに当てるよう求められるだけです。何かを理解するよう求めることはしません。ただ私たちの注意を何かに、いつもとは違うやり方で向けるように練習するだけです。

このほんの触りの部分だけでも、この時間と空間のレベルにおける脳の配線組み替えが始まっています。そして最初から、思考とモノとを、内側と外側とを、全てひとつのものとして結びつけるよう促しています。そしてそれは様々な表現で継続して求められています。

そしてレッスン全体を通して織り込まれているメインテーマは、「判断をやめること」。裁くのはやめましょう。私たちには判断するのに充分な情報がないのですから。
それに私たちが自分を裁くのは、もちろん、他人を裁くことに原因があるのです。なぜなら自分が差し出すものを自分が経験することになるからです。
ですからテーマは、「判断をしないこと」そして「咎めを手放すこと」です。咎めと裁きは密接に関わっているからです。

そして全体を通して、その時々の課題が何であれ、頻度/周波数(frequency)が高められていきます。皆さんおそらく「波長が合う」という表現がどういう感じかお分かりになりますね?練習を重ねるにつれて、私たちの心/マインドはどんどんクリアになり、拡がってゆき、より平安を感じるようになり、私たちの周波数はどんどん上がってゆくのです。脳の配線が組み替わり、焦点を向ける先が変わってゆきます。そしてやがては、私たちの存在の真実は、神であるものが体験をしているのだということが腑に落ちる時がやってくるでしょう。理知的な理解ではなく、経験によって知るのです。レッスンは知性に対して回避戦術をとっているんです。「神が最後の一歩を踏み出す」と書いてありましたね?私たちが一歩ずつ進んでいった先に、あることが起こるのだと述べられています。

何が起こるのかというと、心/マインドがじゅうぶんにクリアになり、広がって、解放された時には、私たちは、体験をしている創造主であり、私たちが経験そのものであること、人間が何かを体験しているのではないのだということを知るのです。

何千年も前から今に至るまで伝えられてきた様々な非二元論の教えでは、「行為者がいて、行為がある。見るものがいて、見られるものがある。知るものがいて、知られるものがある。」という概念に対して、「NO,それらは別々の2つのものではない。主体と客体はひとつである。」と言います。私たちは経験をしている人間ではありません。私たちが経験そのものです。私たちこそが、あらゆる経験におけるあらゆる要素であり、すべてなのです。

ええ、やっぱり異質なものとして聞こえますよね。たとえそうだとしても、これを悟る道のりを、あなたは自分が考えているよりも、ずっとずっと遠くまで進んできたんですよ。

そしてこれを悟るようになる中に、平安、喜び、安心、静けさ、愛、幸福、私たちが体験したいこうしたすべてが、私たちの真実の姿を認識するのと一緒にもたらされるように組み込まれているのです。

これが、あらゆる優れた教えが「私たちはどこか外側から幸せが訪れると考えているけれど、いいえ、それは私たちが本当は何ものであるかの認識/気づきからもたらされるのですよ」と述べている理由なのです。いいでしょうか?さて、私からのちょっとしたコメントはここまで。それでは次の「〜とは何か」のページに飛び込みましょう!

4.罪とは何か

罪とは狂気である。それは心を狂わせる手段であり、それにより心は幻想が真理と入れ替わることを求める。狂った心は、真理があるべきところや実際にあるところに、幻想を見る。罪は肉体に目を与えた。罪なき存在には、見たいと思う対象などいないからである。罪なき存在が情景や音や感触に何の用があるだろう。聞きたいことや、握りしめたいものが何かあるだろうか。そもそも五感で感じたいと思う対象などあるだろうか。「五感で感じる」とは、「知る」ということではない。そして真理を満たせるのは智識だけであり、他にはあり得ない。

テキストの第1章には「ここは私たちが知覚する場所であるが、知識は私たちが今いる場所を超えた領域である」と区別し、そして「真理は智識によってのみ満たされるものであり、感覚的な知覚によって満たされるものではない」と述べています。

肉体とは、心が自らを欺くために作り出した道具である。肉体の目的は、存続のために努力することである。しかし、努力の目標は変わり得る。そうなったとき、肉体は別の努力目標に仕えるものとなる。今や肉体が探し求めるものはら心が自己欺瞞というゴールの代わりに受け入れた新たな目標によって選択される。虚偽だけでなく真理も、肉体の目的となり得る。真理が目標となれば、五官は真実なるものの証人たちを探し求める。

私たちは常に、自分が探し求めるものを見つけます。ですからもし私が嘘を求めるならば、私はそれを見つけ、それが本物だと思うでしょう。そう、私たちは皆とても狂ってるんですね。

罪はすべての幻想の住処であり、幻想とは、不真実な考えから生じる想像の産物に過ぎない。それらは、実在性のないものが実在するという「証拠」である。神の子が邪悪であり、時間を超越したものに終わりがあり、永遠の生命が死すべきものだと、罪は「証明」する。そうして神は愛し子を失い、神を完成させるものは腐敗だけとなり、死が永久に神の意志を打破し、憎悪が愛を殺害し、もはや平安は存在しない、ということになる。

そしてこれは、まったく狂人の夢でしかありません。

狂人の夢はぞっとするほど恐ろしく、罪は身の毛がよだつほど怖いものに見える。だが、罪が知覚するものは、幼稚なゲームに過ぎない。神の子は戯れに、邪悪さと罪悪感の餌食である肉体となって、死ねば終わる儚い生命と化した、というふりをすることはできる。しかしその間も父の光は彼を照らし、彼がどんなに偽装しても微塵も変わらぬ永遠の愛をもって、彼を愛している。

罪とは罪悪感のこと。そして真実が永遠に損なわれてしまったと考えること。私たちは、真実を壊してしまった自分のことを悪だと考えることで、自分自身を恐怖に陥れているのです。しかしそれは子供のゲームのようなもの。神の子、つまり創造力によって表現されたすべてのものはこのゲームをプレイします。私たちは体となり、悪の餌食となり、すぐに死んでしまいますが、そんなことはお構いなしに、父の愛は変わらず私たちを愛し続けているのです。


そしてここで、このワークブック全体の中でも特に興味深い、ユニークな嘆願がなされます。


神の子よ、あなたはいつまで罪のゲームを続けるつもりなのだろう。こうした刃先の鋭い玩具を片付けようではないか。あなたはいつになったら故郷に帰る用意ができるのだろう。それは今日だろうか。罪は存在しない。被造物は不変である。それでもまだ、天国への帰還を先延ばしにしたいのだろうか。ああ、聖なる神の子よ、いったいいつまで、あなたはそれを続けたいのだろう。

さて、私が冒頭でコメントを述べることにしたのは、私たちは決して罪を犯すことはできないのだと伝えたかったからです。罪とは私たちがやってしまったと考える、あらゆるひどいことですよね。ではもし罪人がひとりもいないのだとしたら。このポイントをよく思い出してください、私たちは別々の人間ではないんですよね?だとしたら、お互い攻撃し合うことなんてできないじゃない?ですから、罪は絶対にあり得ないのです。それに単純に言って不可能です。罪人がいないんですから!罪人のいない罪なんて、笑っちゃうでしょ😁

では、ここから次のレッスンが始まります。


レッスン251
私は真理だけを必要としている。

これが示唆するところは、基本的に私たちがこのコースを始める前に信じてきたことはすべて、真実とは全く関係がなかったということです(笑!)私が信じてきたあらゆるナンセンスと入れ替わりに、真理だけを必要としているの!

1.私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だけだった。今度は、ただ一つのものを求める。その一つの中に、私に必要なすべてがあり、それだけが私に必要なものだからである。
以前に求めたものは、必要のないものだった。望んでいるものですらなかった。自分の唯一の必要を、私は認識していなかった。しかし今、自分が真理だけを必要としていることがわかる。その中ですべての必要が満たされ、一切の渇望が終わり、あらゆる希望がついに叶い、夢は消え去る。
今、私は自分に必要なすべてを持っている。今、ほしいものすべてを持っている。そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。

消え去る夢とは、欠乏の夢でした。誰も私を愛してくれるものなどいないという夢でした。私は大丈夫じゃないという夢でした。そして今、わたしは愛、平安、確信、安全など必要なもの全てを得ています。

2.父よ、私達はその平安に感謝します。私達が自分に拒んだものを、あなたは取り戻してくださいました。それだけが私達が真に望むものです。

今日はたくさん考えることがありますね!
ラブリーな1日になりますように。
そして明日はまたこのテーマに関する次のレッスンに飛び込みますよ!

またね、バ〜イ♪


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