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#163 キャロルさんの奇跡講座レッスン
奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪
※ワークブック訳は"There Is No Spoon"https://thereisnospoon.jp/blog-entry-822.htmlを参照しています。
キャロルさんの奇跡講座レッスン163
元の講義はこちら→ https://youtu.be/thwjsozLaeA
毎日のレッスンに、また皆さんとこうして集えるのはホントに素晴らしいわ!
今回はレッスンの中でも、特に過激でドラマチックな内容となっていますよ。さあ、準備はいい?
レッスン163
「死は存在しない。神の子は自由だ。」
「死とは、さまざまな形をまとう思考ですが、それが死だとは気づかれないこともよくあります。
死という思考は、悲しさ、恐れ、不安や疑念として表れることもあれば、怒りや不誠実さ、信頼の欠如、身体の心配、羨望として表れることもありますが、とにかく、あなたの許を訪れてはあなたを誘惑する自分ではないものになりたいという願望はどれもすべて死がまとう形です。それらのすべての思いは、単に解放を与えてくれる救い主として死を崇拝していることの反映でしかありません。」
あなたはこう思うでしょう。
「そうかな?それはすべて死を崇拝してるって、ホント?」
実は、そうなんです。
「恐れの権化であり、罪の宿主であり、罪悪感の神にして幻想と欺瞞の主である死という思考は、実に強大なものに見えます。」
ワーオ!
「死は生きとし生けるものをその萎びた手の内に握っているように見えるし、すべての希望と願望は、死の荒廃の手に握り潰され、すべての目標はただその盲いた目でしか知覚されないように思えるからです。
か弱い者や寄る辺なき者、病んだ者は、死だけが本物で、不可避で信頼に値するものだと思いこんで、死の影を前にひれ伏します。というのも、確実にやってくるのは死だけだからです。」
私たちは幻想を見ているので、それが正しいように思えます。ですが、思い出してください、これは狂った幻想です。
「死を除くあらゆる物事は、当てにならないものに思えます。どんなものも、たとえ困難を乗り越えて手に入れても、あまりにあっさりと失われてしまうような成果の不確実なものでしかなく、たいていは自分がかつて抱いた希望を果たし損ねて、憧れや夢のあった場所に塵や灰の後味を残して去ってしまうものです。
これに比べて、死は当てになります。
というのも、その到着の時が来たら、死は確実な足取りで訪れるからです。死は絶対に、自らの人質に取ったどんな生命も奪い損ねることはありません。」
緊張感のみなぎるドラマが展開されています。レッスンは私たちの注目を高めたいのです。
「あなたは、こんな偶像にひれ伏したいのでしょうか。」
あなたはこんなことが全部、本当だと信じるつもりですか?こんなこと、一つも真実ではありません。私たちが何を行なってきたのか、直視してください。
「ここでは、塵から作り出された偶像の中に、神自身の力と強さが知覚されています。」
実際は塵でもホコリでもありません。ただの空想で出来上がっています。
私たちはまるで愛の強さや万能さ、愛への信頼を、死に対して与えてしまっているように見えます。
「ここでは、神の対極にあるもの(つまり、死)が全創造物の主であり、生命を意図する神の大いなる意志や愛の果てしなさや天国の完璧で不変の恒常性よりも力強いものとして宣言されます。ここで、神と子の大いなる意志がついに打ち負かされ、そして、聖なる神の子の身体の上に死が置いた墓石の下に埋葬されます。」
私たちはついにやり遂げました。真理よりも私たちの方が強大となったのです(笑)私たちの幻想の中でね!
「敗北して神聖さを失った神の子は、死が望む通りの存在へと成り下がってしまいました。死が自ら刻んだ神の子の墓碑銘(私たちの墓碑銘に他なりません)には、彼のためにいかなる名前も与えられません。というのも、神の子(私たち)は塵に成り果ててしまったからです。
そこには、ただこう刻まれています。「神の(愛の)死の証人、ここに眠る」と。」
神にも愛にも何の力もなくなりました。全ての力を持つのは、死なのです。あなたには頼れる愛も安全な場所もありません。そしてレッスンは、さらに重ねてこう続けます。
「そして、死の崇拝者たちがこれに同意して、跪いて地面に頭をこすりつけて、彼らが怯えながらその通りだと囁く間中ずっと、死はこの言葉を何度も何度も書き続けるのです。」(← 4:38頃 キャロルさん、ここで真に迫った声の演技www)
〈その通りだ、死がすべての力を握ってしまった、死が私を捕まえにやってくる〉そんなことはあり得ません!
「何らかの形で死を崇拝しておきながら、なお、自分が大切にする気がなくて避けたままにしたいと思うものだけを選んで死に差し出して、それ以外のものは依然として生かしておくことができると信じるのは不可能です。
というのは、死とは全面的なものだからです。すべてのものが死ぬか、あるいは、すべてのものが生きて死ぬことがありえないか、そのどちらかです。妥協の余地はありません。」
ここに改めて、対極する2つのものを見ています。私たちが正気でいたいなら、この対立を認めなければなりません。私たちは今、正気のところにはいませんが、正気に戻りたいと願っています。
「なぜなら、私たちは、もし自分が正気であるなら、ある考えに全面的に対立するものは、その反対が偽りだと証明されないかぎり、真実ではありえない、という当然の見解を受け入れざるをえないことをここで再び理解するからです。
神の死という観念は、あまりに馬鹿げているので、狂気に陥った者ですら、それを信じることが困難です。
というのも、神の死という観念が示しているのは、神がかつては生きていたが、どういうわけか死んでしまって、どうやら神が生きながらえることを望まなかった者たちによって殺されてしまったらしいということだからです。」
その者達は愛の臨在を認めたくなかった、存在して欲しくなかったのです。
「神を滅ぼそうとした者たちの意志は、神の意志よりも強力で、神に打ち勝つことができたのであり、したがって、永遠の生命は死に道を譲ったことになります。そして、父の死に伴って子も同じく死ぬことになったというのです。
死の崇拝者たちが怯えるのも、もっともなことです。それでも、このような考えは恐れるに値するでしょうか。
もし死の崇拝者たちが、自分たちが信じているのが、この程度のものでしかないと理解したら、彼らは、すぐにも解放されるでしょう。
そして、あなたはこのことを今日、彼らに示すことになります。
死は存在しません。」
生命が存在しないということはありません。
あなたは生きていますよね?
「そして、私たちは、死の崇拝者たちの救済と自分自身の救済のために、今、あらゆる形において死と縁切りします。
神は死を作りませんでした。
したがって、死がいかなる形をとろうとも、それは幻想に違いありません。
今日、私たちはこの観点に立ちます。
だから、私たちは、死を通り越して(言い換えると、愛がないところを通り越して)、その向こう側に生命を見ることができます。」
ここから祈りの言葉が始まります。
レッスンで祈りの言葉で締めくくられているのは、これが最初ですね。
わが父よ、今日、私たちの目を祝福してください。私たちはあなたの使者です。
そして、私たちは、あらゆるものの中に輝くあなたの大いなる愛の栄えある反映を見るつもりです。私たちは、あなただけの中に生き、活動します。私たちは、あなたの永遠なる生命から離れてはいません。
死は存在しません。死はあなたの大いなる意志ではないからです。
そして、私たちは、あなたと同じものとなって永遠にあなたの一部になるようにと、あなたが私たちを置いてくれた場所である生命の中に留まります。
私たちはその生命を、あなたと、そして、生きとし生けるものと分かち合っています。
私たちは、あなたの大いなる思いを自分たちのものとして受け入れます。そして、私たちの意志は、永遠にあなたの大いなる意志とひとつなのです。
アーメン。
驚くべきレッスンです。
真剣にハートに受け止めてくださいね。
また明日もお会いできるのを待ち遠しく思っていますよ。
グッバ〜イ♪
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