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#136 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

キャロルさんの奇跡講座レッスン136

元の講義はこちら→ https://youtu.be/vnTWpli2gfM


ハーイ皆さん、レッスン136、これはまさしく目から鱗が落ちるような内容です。もちろん全てのレッスンがそうなんですが、今回はすごいのよ。

前回のレッスンでは防衛について全体的なことを学びました。さて今回は、より具体的です。
「病気は真理に対抗する防衛である」
愛という真理、ワンネスという真理、私たちの本質についての真理に対抗する防衛というのです。
「病気がどのような目的に役立つように見えるのかを理解しない限り、誰も癒されない。」
おそらく今まで誰も、病気に何か目的があるなどと思ったことはないはずね!
私たちは、病気というのは、ただ単に起こることだと考えています。
「それを理解して初めて、病気の目的にはまったく意味がないことも理解できるからである。

病気には原因がなく、どのような有意義な意図もないので、病気はまったく存在し得ないものである。これがわかったとき、癒しは自動的に起こる。」

まだこれを理解しようとしないでね!
理解は後からついてきますよ。

「すべての幻想、幻覚を真理のもとに運び、そこでそれが消えていくままにするのと同じやり方で、癒しは病気というこの無意味な幻想を消し去る。」

つまり「こんな防衛はもういらない」と悟るということ。防衛は、ただの狂った幻覚に過ぎず、実相において何の役割も持たないものですから。

「病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気の仕組みである。」

自己欺瞞とは、私たち皆は、分離したバラバラの存在であると考えることです。

「そして他のすべての防衛の場合と同じく、病気の目的は実相を隠し、攻撃し、変化させ、無能にし、歪め、ねじ曲げ、まとまりのない断片の寄せ集めへと貶めることにある。」

まあ!そんなことを自分たちがやってるなんて、思いもしなかったわ!

「(病気を含む)すべての防衛が狙いとしていることは、真理を全一でないものにしておくことである。」ワンネスという真理が、認識されないようにしておくこと。

わかります?私たちはワンネスを恐れているの。私たちはずっとワンネスの状態にあるのに、それを自分たちは捻じ曲げてしまったと思い込むようになったのです。

ですから、この断片、つまり個々の各人や各事物が、まるでひとつひとつの「個としての全一」のように見えているんです。実際はひとつのものの中にいるのに。
あなたは自分が他とは違う人間だと思ってるでしょ?隣にいる誰かのことも、やっぱり、自分とは別の人間だと思ってるでしょう?

「防衛は無意識的なものではなく、自覚せずに行われるものでもない。それは、あなたの信じたいことが、真理によって(つまりワンネスによって)脅かされるかに見えるときに、あなたが、あなたのエゴが、自分が真理であると主張したくて、あなたに信じてもらうために振り回す秘密の魔法の杖である。

それが無意識のもののように思えるのは、あなたがあまりにも素早く防衛することを選択するからにほかにならない。その選択が下されるほんの1秒、否、それ以下の瞬く間に、あなたは自分が何をしようとしているかをはっきりと認識し、その後、そうなってしまったと考え始める。」

はぁ!(キャロルさん、大きな溜息)

「あなた自身以外の誰が、脅威の程度を推しはかり、脱出策が必要だと決断し、実在すると判断された脅威を緩和するために一連の防衛策を講じたりするだろうか。」

私たちは何かが実際に私たちを脅かしていると考えますが、自分を脅かしているのは自分のエゴの防衛システムであり、それは単なるプログラムの寄せ集めに過ぎないのですよ。それは、本当の私たちではありません。

「こうしたことはすべて、無意識に行えるようなことではない。
しかしそれを行った後でらあなたの計画は、あなたが自分でその脅威を作り出したことを忘れるようにと要求する。
忘れることで、それがまるであなた自身の意図の外側にあるように見える。
すなわち、その脅威はあなたの心の状態とは関わりのないところで起こっている出来事のように感じられ、自分自身が生じさせた結果ではなく、外側から自分に真に影響を及ぼすもののように思える。」

“私はあれの責任を負いたくない!私がしたいのは、これ”と言って行動してから、”なんでこんな事になったの?私は被害者だわ!”と言っているようなもの。

「防衛が自分にコントロールできないもののように見えるのは、自分の「現実」を作り上げるときに自分が果たす役割をこうして速やかに忘れ去っているからである。

しかし、忘却により二重の盾で守られるようになった決断を再考してみようという意欲があれば、自分が忘れたものを思い出すことはできる。」

“えっ?何のことを言ってるんだろう?”

「あなたがそれを覚えていないということは、あなたの(実相と闘って自分は分離した存在だと思い込んでいる幻覚の方が本物なのだとしたい)願望に関する限り、この決断にはいまだに効力があるというしるしに過ぎない。

「このことが事実だと誤解してはならない。防衛は、必ず事実を認識不可能にする。防衛はまさにこれを行うことを目的としており、実際に防衛が行うのは、これである。

あらゆる防衛は、全体の中から複数の断片を取り出し、それらの間の真の相互関係を考慮せずにつなぎ合わせることで、実在しないのに「全体」のように見える無数の幻想を作り出す。」

私たちは自分の世界に無数の幻覚を作り出しています。

「脅威をもたらしているのはこのプロセスそのものである。」

プロセスは全体を無数の小さな断片へと分裂させてしまいます。そのプロセス自体が脅威となっているのです。断片化されたピースが脅威なのではありません。

「全体からもぎ取られた部分の一つひとつが個別のもので(そう見えているだけで、実際には全体がばらばらになることは無いんですけどね!)、それぞれがそれ自体の中で全体を成すものとして見られるとき、それらは真の全体に対する攻撃を表す象徴となる。

それなのに、あなたは、それらが表しているのは何が実在すべきかについてのあなた自身の決断にすぎず、真に実在するものと入れ替わっただけに過ぎないということを、忘れてしまった。」

だから、「病気はひとつの決断である。望んでもいないのに生じてきてあなたを弱らせ苦しめるものではない。それはあなたが自分で下す決断であり、自分で立てる計画である。

幻惑されているあなたの心の中で一瞬でも真理が思い出され、あなたの世界全体が揺さぶられて崩れ始めるように見えるその瞬間に、あなたが選ぶのがその計画である。

そうしてあなたは病気になる!(ここのキャロルさん、盛り上げる!)
それによって、真理が遠ざかり、自分が築き上げたものがこれ以上脅かされずに済む。」

ワークブックの他の場所で、これは他の人に罪悪感を押し付けることだと述べられています。つまり「私が病気になったのは、あなたのせいだ」というんです。エゴの特別性がここで脅かされている、ということなんですね。

「ではあなたは、病気がどのようにして自分を真理からうまく遮断することができると思っているのだろうか。」
大事なことですから、ちゃんと聞いてくださいよ。

「それは、肉体と自分が切り離されてはいないということを、病気が証明してくれるからであり、そうなると、あなた自身が真理から切り離されたものに違いないという事になるからである。」

そしてもしあなたが肉体だということになれば、あなたは真理とは切り離されたものだということになります。あなたが肉体であり、また同時に意識でもあるということは出来ないんです。どちらか一方だけが真実です。

「肉体が痛みに苦しむ(ように見える)のであなたも苦しみ、その苦しみの中で、あなたは肉体とひとつになる。」肉体をアイデンティティーとしてしまうのです。

「こうしてあなたの『真の』アイデンティティーなるものが保存され、『自分はこの小さな塵の塊以上の存在かもしれない』という、あなたにつきまとって離れない奇妙な考えを静め、沈黙させることができる。」

つまり、これは私たちの心の中では、話してはいけないことになっているのです。ほら、聞いてください!

「なにしろ、この塵の塊はあなたを苦しめ、手足をよじらせ、心臓の鼓動を止め、あなたに死滅するように命じることができるのだから、それが実在しないはずがない、ということになるからである。」

ワーオ!何という強大な力を私たちは病気に与えているんでしょう!

私たちは、この肉体は真理より強大で、愛よりも強く、自覚より強力だと確信するようになり、「真理があなたに生きることを求めていても、あなた自身が下す死の選択に打ち勝つことはできない。」

「だから、肉体は永遠の生命よりも力があり、天国は地獄よりも脆弱で、わが子を救おうとするの計画は、神の意志よりも強い決断により妨害される。」

この傲慢さときたら!エゴはこう宣言します。「神の子は塵に過ぎず、父なる神は不完全だ」と。「そして混沌が勝利して玉座につく。」
エゴが闘いに勝利し、神に取って代わったのです。

これがどんなにか狂っていて、話にならないくらい不可能なことか、わかりますか?

しかしレッスンはこう言うのです。
「以上が、自分を防衛するためのあなたの計画である。

そしてあなたの信じるところによれば、このような狂気の攻撃の前では天国も怖気づき、あなたの幻想により神の目は眩み、真理は虚言に変わり、あなたの防衛、エゴが宇宙に課した法則に全宇宙が隷属するようになる。」

ワオ!

「しかし、幻想、幻覚を作り出した張本人であるあなた以外に誰が、そうした幻想を信じるだろう。」
私たちひとりひとりが幻覚を見ています。他の人にそれが見えていますか?誰も見えてません!
「ほかの誰にそれが見え、ほかの誰があたかも真理に対するかのようにそれらに反応するだろう。」

神の意志を変えようとするあなたの計画を、は知らない。宇宙は、あなたが宇宙を統治する手段とするつもりだった(狂った)法則には無頓着である。

天国が地獄にこうべを垂れたことはなく、生命が死に屈したこともない。

あなたにできるのはただ、自分が死んだら病気を患ったり、何らかの形で真理をねじ曲げたりすると考えることを選択する、ということだけである。創造されたものは、これらすべてと縁もゆかりもない。

防衛とは、攻撃不可能なものを打ち負かそうとする計画である。不変なるもの(私たちのことです)が変わることはあり得ない。そして、まったく罪と無縁のものが罪を犯すことなどあり得ない。」

あなたが幻覚を見ているのでない限り、そして自分が罪がある振りをするのでない限り、私たちの無垢性は常に真理であり、決して罰せられることはありません。こうした全ては、幻惑された、狂った心の中で起こっているだけなんです。

そう、これはシンプルな真理なんです。シンプルな真理とは、何も変わらなかったというここと。
「真理は力に訴えることも、勝ち誇ることもない。服従を命じることもなければ、あなたが真理を変更するような防衛をもくろむことが、いかに哀れで不毛であるかを証明しようともしない。

真理はただあなたに幸せを与えたいだけである。それが真理の目的である。

あなたが真理の贈り物を放り出すとき、真理は少しばかり嘆息をつくかもしれないが、それでも真理が確実に知っていることは、神の意志があなたに望むものは必ず受け取られるという事実である。」

それは今ここで起こっているんです。私たちはそれに背を向けていますが、永遠にそれを続けることはないのです。遅かれ早かれ、いずれ、自分自身について真理を知りたいと思うはずなのです。

「この事実、私たちの幸福は今すでにここにあるという事実が、時間は幻想であると実証する。

なぜなら、があなたに与えたものが真理に違いないというのに、今この瞬間においてそれが真理でないとあなたに思わせているのが、時間だからである。

神の想念は、時間とはまったくかけ離れたものである。」

神の想念とは、実体があり、愛と体験を伴い、頭で考えるような、死んだ思考のことではありません。

「というのも、時間とはあなたが真理に敵対して作り出したもう一つの無意味な防衛に過ぎないからである。しかし神が意志することはここにあり、あなたは今、この瞬間も、神が創造したままのあなたであり続ける。」

今この瞬間ではなく、物事がうまくいけば、〈いつか〉幸せになれると思い続けているのが私たちの状態です。それはおかしな考え方なんです。

「真理、すなわち愛が受け入れられたところに幻想は存続できないので、真理には防衛よりもはるかに大きな力がある。」
どこかに真理を手に入れに行かなければならないってことじゃないんですよ、それは今ここにあります。あなたが「YES」と言えるときに、それはあるんです。

「そして、真理は、自分の武器を捨て(あなたの不平不満という防衛のことです)、愚かな戯れをやめようとするどの心にも訪れる。それはいつでも見つけられる。(あなたが罪悪感にまみれた小さな存在であることをやめ、愛であるという)真理を歓迎する練習を選択するなら、それは今日、可能である。

これが私たちの今日の目標である。今日は、15分の練習を2回行って、真理がやって来て私たちを自由にしてくれるように求める。そして真理は訪れるだろう。」

真理は訪れます。影のように一度も私たちから離れたことはなかったのですから。

「真理はただ、今日私たちが差し出す招待を待っているだけである。私たちが防衛の態度を超越できるように、また真理がこれまでも、これからも、常にそうであった通りにあり続けるように、以下の癒しの祈りにより真理の招待を始める。」

「病気は真理に対抗する防衛である。私は自分の本性についての真理を受け入れ、私の心を今日、完全に癒してもらう。」

テキストのどこかに、すべての現実は私たちの狂気に基づいた無意識の中で起こっていて、私たちの心の中の片隅に「苦痛のための病棟」として使われている場所がある、そして、この自分は切り離された存在だと考えている小さな一隅が、全体性の中に迎え入れられる必要があるのだと述べられている箇所があります。
もちろんそれは切り離されたことなどなく、眠りの中であらゆる種類の物語を作り出しているだけです。

「戦いや無意味な想像のあったところに平安と真理が現れ、あなたの開かれた心に、癒しが速やかに行き渡る。

病気が隠したり、真理の光から防衛しておいたりできるような、片隅の暗がりがなくなる。あなたの夢から生じたおぼろな人影もいなくなり、彼らが狂ったように没頭していた、二重の目的を持った、曖昧で無意味な追求も、あなたの心の中から跡形もなく消え去る。」

二重の目的とは、あなたが病気であるように見せかけて自分にはなぜそうなったか、さっぱりわからない振りをすることを指しています。

「あなたの心は、病的願望に肉体を服従させようとしてきたが、今や、そうした願望のすべてから癒される。

そうなれば肉体も癒やされる。病気の源(私たちの狂った分離的思考)が助けを受け入れるようになったからである。

そしてあなたが上手に練習したかどうかは、肉体がまったく何も感じないということにより認識されるだろう。」

ここは注目に値しますね。肉体がまったく何も感じないとは、あなたが麻痺してしまっているということではありません。肉体に関心を寄せることがない、ということです。

「もしあなたが練習をうまく行っていれば、気分の良し悪しの感覚や、苦痛や快感といったものもなくなるだろう。心の中には、肉体がすることに対する反応がまったく存在しなくなっている。ただその有用性だけが存続し、それ以上の何も残らない。」
通信が目的の電話機のようなものですね。

「あなたにはよく理解できないかもしれないが、このことが、あなたが与えた目的によって肉体に課せられていた限界を取り除く。」

エゴが肉体に与えた目的を、コースはこんなふうに言ってます。「何のために肉体を持つの?魚釣りのエサにするため?」(笑)

「そうした限界が退けられるとき、肉体は真に有用な目的のために、充分な強さで働けるようにのる。時間や天候ら疲労、食べ物や飲物、そのほか、あなたが以前に肉体を隷属させたどんな法則によっても限定されないことにより、肉体は完全に健康を保証される。」

レッスン76「私は、ただ神の法則のもとにある」で学んだように。

「病気はあり得ないものになったので、今やあなたは肉体を健康にするために何もする必要はない。」

この点をよく聴いてくださいね!癒されていない心だけが癒やされていない体として現れるのです。心を癒せば、心の鏡である体は、選択の余地なく、心に従うのです。

「しかし、この保護は、注意深く見守ることによって保持されなければならない。もしあなたが自分の心に攻撃的な考えを抱いたり、何かを裁いたり、(昨日のレッスンで話したように)予測のつかない状況に対処するための計画を練ったりするなら、そのような心は病んでいるのだから、あなたは再び自分を間違った場所に置き、自らを肉体と同一視したのであり、それは肉体を攻撃することになる。」

計画とは防衛であり、それは「私は神によって見守られていない、私は切り離されてひとりぼっちだ、自分で自分を守らなければ」といっていることになり、それはつまり「私は本当の私ではない」と主張していることになります。

「このようなことが起きたら、あなたの防衛の態度がこれ以上自分を傷つけないように、すぐに治癒を施そう。

何が癒やされなければならないかについて混乱することなく、次のように言おう。

私は自分が本当は何なのかを忘れていた。本当は、限界のない、永遠の、無限の、目には見えない、自覚を持った意識なのだ。
私は忘れてしまって、自分をちっぽけな肉体だという幻覚を見ていた。病気は真理に対抗する防衛だ。しかし私は肉体ではない。私の心は攻撃することはできない。だから私が病気になることはあり得ない。

とても大切な、大きなレッスンです。
あなたがこれを本当に胸に刻みつけることを願っています。

練習を頑張ってくださいね。
では、またね!


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