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#101キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

キャロルさんの奇跡講座レッスン101

元の講義はこちら→ https://youtu.be/PDCtIc2IKfY


ハロー親愛なる皆さん!
レッスン101


「神の意志が私に望むのは完全な幸せである」

さて今日も引き続き、幸福についての概念を取り扱いますよ。良いですね!私たちにはもっと幸せが必要ですものね♪

「これは、救済の意味を理解するための鍵となる概念である」、なぜなら私たちはその意味をまったく正反対に捉えているからです。
私たちは救済の意味を、私たちの罪に対する「苦しみ」「苦痛を伴う償い」そして「罰」であると考えてきました。
では「罪」とは何か。
それは「私の肉体の犯した振る舞い、そして私の発した言葉がとてもひどいので、私は合一性を引き裂いてしまった。私は自分の生まれ持った性質を変えてしまった、あらゆる被造物を乱してしまった。それは修正不可能だ」という考えです。
これは間違いです。
それは間違っているだけでなく、そんなことを言うのはかなり傲慢な立場をとっていると言えます。
これは「私の幻覚であるこの肉体にはそれほどの力がある」と言っているのと同じだからです。

肉体は罪悪感に依存していて、罪悪感を感じることでパワフルだと感じています。これに関しては、いずれ詳しく学ぶことになります。

とにかく、私たちが考えているのは、そのような事なんですね。

罪を実在すると考えて、「私は自分自身を変えてしまった、自分を台無しにしてしまった」と思いこんでいる限り、創造とは罪悪であると見なしてしまいます。
もし罪と罪悪感が真実ならば、罰は正当なものとなり、免れることは出来ません。

そして身の回りを見てみれば確実にわかる事ですが、私たちは〈救済とは苦しみである〉と固く信じ込んでしまっているのです。

罪が実在するなら、幸せは幻想です。なぜなら、この2つは互いに正反対だからです。
「罪ある者には死と苦痛だけがふさわしい」となります。なぜなら、彼らはとてもひどいことをし、神の創造物を台無しにしてしまったからです。

罪悪感を感じている私たちは、その罰が私たちを探し回り、いつかどこかで何らかの形で確実に私たちを見つけるだろうと信じています。

そんな狂気に耳を貸さないで!
真実の愛である神が復讐心に燃えていて、私たちの罪のために私たちを捕まえようとしているなんて!もちろん、そんな事は一度も起こっていないことです。

さて、これには間違いがあります。
「彼らはから逃げきれない」(英語ではThey would not escape him 直訳すると「彼らは逃げようとはしないだろう」)と書いてありますが、私はそれは間違いだと思います。私達は恐れおののいて彼から逃げようとします(we would escape him)が、彼は追いかけてきて、誰も逃げられないのです。

ここからとてもドラマチックな展開が繰り広げられていますね。白熱してるわよ。

「もし罪が実在するなら、救済は苦痛でしかありえない。苦痛は罪に伴う代償であり、苦しみを免れることは全く不可能である。そして、救済は私たちを殺しに来るものであるから、私達は恐れざるを得ない。しかもそれはゆっくりと行われ、すべてを奪ってから、救いが鎮まる前に、その言葉通り、骨にすぎない犠牲者に死という歓迎すべき恩恵が与えられる。」

ウフフフフ!!
ここで描かれているドラマチックな展開、大好きよ!(笑)

「救済の怒りは、際限なく無慈悲なものであるが、まったく公正」で神聖なものとされる。なぜなら私たちは自分たちの罪があまりにも酷いものであると信じているからです。

救いがそのような罰だとしたら、誰がそのような救いを求めるでしょう?
皆が、救いの側へ誘う声をかき消すために、あらゆる方法で反対方向へ逃げようとするでしょう。誰がそんな声に耳を貸そうとするでしょうか、そのような招きを受け入れる人などいるでしょうか。

「もし罪と罪悪感が実在するなら、それが差し出すものは常に死であり、罪が生み出した凶暴な願望に見合った残酷な形で配分される」

そう、確かに私たちは悪意のある願望を抱きましたが、罪は生まれなかったのです。
「罪が生まれた」と「間違いがあった」では、まったく話が異なります。

もし、罪と罪悪感、そして物事を永久に、永遠に台無しにすることが本当に起こったことだとしたら、救済は私たちの最悪の敵であり、神の子を十字架にかけたあなたに対する神の呪いだということになるでしょう。

これは、十字架にかけられたイエスのことを話しているのではありません。
私たちがワンネスを台無しにしてしまったという話です。
神の子とは、すべての被造物のことなんです。
それは、こういうことなんです。
「私はワンネスをたくさんの小さな断片に分離してしまった。私はまったくそれを台無しにしてしまった。そう、私は罪を犯してしまった。私は有罪なんです」

あらまあ!何て考えでしょう!今日はホントにこの練習時間が必要ですよ!

この練習は、罪は実在しないことを教えてくれるものなんです。
自分が罪を犯してしまったために起こると思っていることは、すべて起こらなかったし、これからも起こりません。

それから、「贖罪を受け入れる」という事について。

贖罪とは、私たちが、わが家を離れたことが無かったと認めることです。しかし、その言葉が別の意味を持つこともあります。
だから、自分が被造物から悪魔を作り出したなどと考えたりせず、素直に受け入れてください。

罪はないのです。
これが今日の考えの基本であり、これを何度も練習する必要があります。

今日の概念は、
「神の意志が私に望むのは完全な幸せであって、殺したり傷つけたりはしない。なぜなら罪はないからです」

苦しみには原因がなく、喜びが正義です。

苦しみとは、あなた自身が何者であるか、何が起こったのか、そして創造主とは何かを、ひどく誤解していることの証に過ぎないのです。
ここにあらゆるたくさんの誤解があるのです。

だから、神の意志を恐れないでください!恐れるのではなく、確信に代えてください。

「熱に浮かされた想像の中で罪がもたらしたすべての結果から、神の意志である幸福が、あなたを解放してくれるという確信を持って、神の意志に頼りなさい」

5分間の練習では、「神の意志が私に望むのは完全な幸福でありる。罪はない」「罪にともなう結果も、罰も、犠牲もない」と繰り返します。

そして、喜びや安堵を見出しましょう。

「えっ?それって、私は恐ろしい罰を受ける必要はないってこと?」そうよ、自分を罰するのはやめましょう。そこに正当な根拠はありませんから。

練習する時間を自分にを与えてください。
私たちが自分自身に課したこの重い荷を降ろしてください。この、罪が実在するという狂気の信念を。

今日は狂気から脱出する日です。そのようなことを信じるのは、まったく狂気の沙汰としか言いようがないからです。

ここからまた、詩的表現が続きます。
「私たちは自由の道を歩んでいる。
今日の概念が、あなたの歩みを速める翼となり、平安が待つゴールへさらに急ぎたくなるような希望をもたらしてくれる」

罪はない、以上です。話は終わり!

「神の意志が私に望むのは完全な幸せである」というのは、まったくもって真実なのです。
なぜなら、罪というものは存在しないからです。

自分を罰することなく、素晴らしい一日をお過ごしください。


今日はここまで。
グッバイ♪


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