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#108 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

キャロルさんの奇跡講座レッスン108

元の講義はこちら→ https://youtu.be/fYHLLZOb038


ハロー親愛なる皆さん♪
レッスン108
「与えることと受け取ることは、真理においてひとつである。

レッスンは「心眼/ビジョン」という言葉から始まります。ビジョンが今日の主たる概念のようですから、ビジョンとは何なのかを知らなくてはなりませんね!

ビジョンとは、肉体の視覚とは関係ありません。
これは、肉体を超えて観ること。
私たちをお互いから分離させているあらゆる罪悪感、判断を手放したところにある心の場所から観る、ということです。特別性を求める欲求から、統合してひとつになることを希求するシフトです。
これは内側のプロセスなのです。
ですから、一生懸命、目を凝らして見れば、何かが違って見えてくるって事ではありませんからね(笑)

その主旨は、「赦しを持って観ることを選択する」ということです。赦しとは、私がただ全ての間違った観念を手放すという意味でした。

それがこのレッスンの目的となりますね。
このように観ることが出来るようになるということとは?

私たちは未だ、形の世界に住んでいて、そこから目覚めるまでには至っていませんが、徐々に物事を今までとは異なるやり方で見て体験するようになってきました。
「その中には光がある」と書かれています。
愛すること、理解することがその中にあります。それは「対立するように見える全てのものを和解させる」
良い/悪い、OK/OKじゃない、有罪/無罪という対立を和解させます。これらは私達が握っているジャッジメントであり、ビジョンはこの全てを止めるのです。

こうした、良い人•悪い人といったようないわゆる「対立」は、すべて溶かされます。
誤った考えである「葛藤」も、すべて解決します。平安の中から生じた合一性のところから、私たちは観るようになります。レッスンには、葛藤が「完全に真実であるひとつの概念へと還元される」と述べられています。

私たちは未だ形態の世界にいますが、これから、あらゆるものが愛に満ち、美しく善であるという概念を持つことにします。一部がそうであるというんじゃありません。いわば全部が良い方に転ぶということです。

「だが、その一つの概念さえもいずれは消滅する。」なぜなら、その背後にある〈非二元論的体験〉が現れて、それと入れ替わるからです。そうするともちろん、夢は入れ替わるので、私たちは平安の内にいます。私たちは目が覚めます。
私達は、今はまだそこに至ってはいませんが、そこへ向かう道中にいますね。

「真のビジョンを可能にする真の光は、肉体の目が見る光では無い。」それは、すっかり統合されている場所で、愛を持って観るところであり、実際すべてが愛であるところ、まったく闇が知覚されることのない心の状態のことです。

そして同じであるもの、つまり私たち全員のことですが、それはひとつのものとして見られるのです。

さて、「同じひとつのもの」とは、「つまらない退屈なもの」ではありません。私たちが個々の独特のものでは無いということではありません。それが意味するのは、私たちは皆、愛であり、無垢であることにおいて一つである、ということです。

いいですね?

それからレッスンは続けて、「同じでないものは存在しないので、顧みられることはない」と言います。
ありとあらゆる「あの人、この人のここが間違っている」という考えや、罪悪感、判断/評価などは、もう私たちの視界に入らなくなります。
それらは私たちの心から消え去るので、もはや認識できなくなるのです。

さて。ここからレッスンは対立を見せることのない光について述べていきます。
私は今や、対立するものを、全て受け入れることのできる愛に満ちた実相の中へと溶かしていきます。すでに癒やされているビジョンには、世界をそんなふうに観る力があるのです。これが癒す力です。これが、私たちの心の平安をほかの心へと分かち合う光です。そして私たちは、皆ひとつであることを喜ぶのです。

これが癒す光です。それは、単一の知覚をもたらし、そこでは私たちは、すべてを同じものと見なすのです。これはひとつの参照点に基づくものです。その参照点とは、愛であり、統合であり、無罪性なのです。

そして、罪悪を見ずに無罪性だけを観るこの参照点において、与えることと受け取ることがひとつの想念、ひとつの愛の想念の異なる側面であることが明確になります。

この想念の真実性は、与えることと受け取ることのらどちらの側が先でどちらが後だと見なされるかということには、依存しません。
この参照点において、それらは同時に起こるのであり、完全なままであり続けるのだと理解されます。そしてこの理解の中に、対立するものすべてを和解させるための土台があります。なぜなら、そこではこの、同一の、愛に満ちた罪悪のない参照点の枠組みから、知覚されるからです。

「完全に統一されたひとつの想念は、全ての想念を統合するよう働きます」

「これは、ひとつが正されれば、すべての訂正に充分である」、「一人の兄弟を完全に赦すなら、すべての心に救済をもたらすには充分である」というのと同じです。」
わかりますね。一人の兄弟を完全に許すということは、罪悪についてのあらゆる考えを完全に手放すということです。すべを消し去るのです。
これらはあらゆる学びに適用するひとつの法則が、私たちの役に立つように、特別な形で適用されたいくつかの事例にほかなりません。

さて、「与えること」と「受け取ること」について再び述べられています。
与えることと受け取ることが同じであることを学ぶことは、私たちにとって特別に有益である、と書かれています、
なぜなら、それはとても簡単に試すことができ、真実だとわかるからです。

そして、この特別な、いわゆる「対立する2つのもの」を扱う事例を通じて、どのような状況で試されても、この法則がつねに作用していることが証明されるとき、その背後にある概念を、疑いの残っているほかの領域や、二元性を見る〈ダブル•ビジョン/二重の視覚〉にまで一般化できるようになります。

ダブル•ビジョン/二重の視覚とは、あるものを良いと見て、別のものを悪いと見なすことであり、これはOKで、あれはダメ、この人は有罪、あの人は無罪と見なす、ということです。

というわけで、与えることと受け取ることが正反対のように見える、この特別な事例を用いて練習してみましょう。

このレッスンは、明白な事例に適用します。
それは、すぐに結果が出るからであり、見逃すはずがないからです。
与えることは、受け取ること。
私たちは、この2つを相反するものだと考えていますが、そうではありません。それは実際、1つの全体なのです。

今日、私たちは誰にでも平安を提供しようと試みます。そして、平安がどれほど速く私たちの体験になるかを見てみましょう。

実際は平安は決して私たちのもとから離れないので、私たちのもとにどこからか戻ってくるわけではありません。ですから「平和をどれだけ早く私たちが体験するか」と言った方がもう少し正確な表現かもしれません。

光は静謐さであり、その平安の中でビジョンが与えられ、私たちはすべてが罪がないことを理解することができます。
何もかもダメになってなんかいません。何もバラバラになっていません。そしてすべてが創造されたままで在り続けていることを、理解出来るようになるのです。

今日の練習を、この文章から始めます。

「与えることと受け取ることは真理において一つである。」
「私は、今私が与えるものを、受け取ることになる。」

今、与えて、1年後に何か返ってくるかもしれない、というような事ではないんです。
モノの取引きといった場合は、そういうものなのかもしれませんが、しかし、それは与えるものを受け取るというこの法則が実際に働く方法ではないのです。

では、目を閉じて。
5分ほど、自分がみんなに何を差し出せば、それが自分の体験になるかを考えてみてください。
ここにいくつかの例を挙げます。
ここに3つ例がありますが、そこにもう少し付け加えましょう。

「すべての人に、私は静寂を捧げます。」
つまり、世界中の傷ついて怯えた、狂気の人たち、つまり私たち全員に静けさが訪れることが、今の私の願いです。
だから、私はあなたにそれを捧げましょう。

あなたに、静寂の贈り物を受け取ってほしい。

あなたの苦しみがようやく終わるように、心の平安を体験してもらいたい。

自分に厳しくしているあなたに、優しさを捧げたい。

あなたは自分自身にとても厳しいので、あなたに理解と共感を捧げたいのです。


私はあなたに優しさを捧げたい。
あなたに安全を捧げたい。

私はあなたに祝福を贈りたい。

あなたに愛を贈りたい。

あなたがリストに加えたいことがあれば、何でも言ってください。

そうして、ひとつひとつをゆっくりと口にし、しばらく待つと、たとえば、あなたがみんなに体験してもらいたいと心から願っている平安が、あなたの中にそっと落ち着いてくることに気づくでしょう。

あなたが与えるものはすべて、あなたが受け取ることになります。レッスンでは、「あなたが与えた分量と厳密に同じ分量が、あなたのもとに戻ってくる」という、非常に分かりやすい表現になっています。

厳密に同じ分量です。

というのも、「まあ、これ位あなたが平安ならならいいや」という、”ほどほど”な感じで実践してしまうと、それがあなたの体験になってしまうからです。
しかし、情熱と意欲をもって、誰もが平安のある場所に落ち着くことこそ私の望むものだという気持ちがあれば、それがあなたの体験になるのです。

もし役に立つなら、これを一人の人に向けて、その人が他のみんなを代表すると考えることもできます。
でも、そこに他の全部の人を含めなければなりませんよ。
ある人には安心してほしい、他の人は苦しんでほしい、とは言えません。
一部の人に安らぎを与え、残りの人が苦しむことを望む、などということはできません(笑)

このシンプルな教訓が、私たちに多くのことを教えてくれるでしょう。結果も原因も理解できるようになりました。なぜなら、あなたはそれを経験したからです。
だから、もはや理論ではなく、自分の目で確かめたのです。誰かに、あなたが提供したものが、あなたが経験したものだと言ってもらう必要はないのです。

これは素晴らしいことです。私たちは今、学習においてより速い進歩を遂げることができるのです。
そして、「与えること」と「受け取ること」は真実においてひとつであることを思い出すたびに、私たちはどこに向かっているのかをより確信することができるでしょう。

このことを決して忘れないようにしたいものです。

さあ、このとってもワンダフルな練習に取り組みましょう。

今日見かける人、思い浮かべる人、その瞬間に自分の欲しいものを差し出して、何が起こるか見てみましょう。

とっても素敵な一日にしてくださいね。
グッバ~イ♪


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