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キャロルさんの奇跡講座レッスン #35

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖

キャロルさんの奇跡講座レッスン35 元の講義はこちら→ https://youtu.be/eWPlyGGY3OA

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今回の訳は難しかったです…毎日その日に訳していくので、時間の制約もあって推敲もあんまり出来ず、少し不本意ながらも今できる精一杯の仕上がりです。1年後にまた戻ってきて修正するかもしれません。頑張ります!
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皆さん、ご機嫌よう!
共にレッスンが出来るのを、本当に嬉しく思います♡

レッスン35
「私の心は神の心の一部です。私はとても神聖です」

さてまず最初に「神聖」とは実際に何を意味するのかについて考えねばなりません。エゴは「神聖」が何のことかさっぱりわかっていませんから。
エゴにかかると神聖の意味が偽善になってしまいかねません。

神聖とは、神に属するものであることを意味しています、
言い換えると、私は神の表現であるということです。

「私の心は神の心の一部である」というのは、私は神の表現である、ということ。そして確かに神は神聖であるからこそ、神の表現も神聖であるに違いありません。

レッスンは冒頭に「これはあなたが自分自身をどのように見ているかを述べているのではない。」と説明しています。これは、あなたがこれらのレッスンを通して変化し続けるにつれ、あなたが自分自身をどのように見るかを学んでいく過程を示している、ということを言っています。

さて、レッスンにはこのように自明のことが述べられていますね(笑)

「自分がこの世界に存在していると思っている者にとっては、自分についてこのことを信じるのは難しい。しかし、これを信じていないからこそ、私たちは自分がこの世界に存在していると考えているのである」

「あなたは自分が存在していると思っている場所で、自分がその一部であると信じている。なぜなら、あなたは自分が望む環境で自分自身を取り囲むからである」

これを言い換えると、私達は、どうやって自分たちが分離した個々であり、大きな世界の中で何もかもから切り離されたちっぽけな人間なのだと真剣に信じるようになったかを考える必要は無いということ。そんな考えがどこから湧いてきたのかは問題ではありません。それについて何をするかの方が遥かに重要なんです。

私たちが自分がいると思っている環境、それを私たちは「私たちの世界」と呼んでいるのですが、これまでのレッスンで、この世界を作り出したのは私たちだったのだ、と学びました。

では、「自分が望む」とは?私たちは、見たところバラバラの、お互いとは無関係な無数の事物で出来上がった世界を望んでいるのです。なぜなら、それが自分だと思っているからです。

従ってこのような、世界を作り上げている無数のバラバラのピースの中にいる分離した個々という自己イメージが、その目を通して肉体の心というイメージを見ているのです。

さて以前のレッスンでは、肉体の目は実際は何も見ていない、それらは見るために外側に見るものを作り出したのだと教わりました。
「見て!ここに犬が見える」「万年筆が見える」といった具合に。

イメージとしてモノを分離させておいて、それから「私は見る」と言うのですね。

この肉体の目が行っていることのプロセスは、実際何の意味も為しません。なぜかと言うと、イメージは見ることが出来ないからです。それらは事物をでっち上げるだけです。

レッスンは「今日、あなた自身について全く違った見解を提示する」と言います。つまり、私たちは実は神/愛の側面のひとつであり、それから何かを引いたものでも、足したものでもない。私とあなた、そして他のすべての本来の姿は、エゴが私たちに教える姿とは違って、永遠で無限の、把握することが不可能な神の心の一部であるという見解を確立すると言っているのです。


さらにレッスンはこう言います。
これまでは、私たちが見ているもの、知覚していることについて扱ってきました。そして私たちが見るものと私たちが考えることは同じものだと伝えてきました。レッスンの内のあるものは「見る」に関することから始まり、また他のあるものは「考える」について、またあるものは「考える」から「見る」に移行する過程から始まりました。それらはすべて、私が外側にあると考えることについて体験していることのみを扱っていました。

今回は、知覚する主体についてのレッスンです。

今回は5分間の練習を3回行います。それ以外にも必要なときはいつでも実践します。

目を閉じて、今日の概念を繰り返します。それから、あなたの今ある状況について思い巡らせます。仕事関連かもしれませんし、個人的な状況に関することかもしれません。

まず初めに今の人生がどのようになっているかを認識し、自分自身を描写します。レッスンにリストが挙げられていますね。
「私は自分が他人につけこまれていると見なしている」「私は自分が落ち込んでいると見なしている」自分でどんどん足していきましょう。「私は自分がのけ者にされていると見なしている」「私は自分が評価されていないと見なしている」「私は自分を大嘘つきだと見なしている」(笑)などなど。

そしてレッスンはこのように言っていますね。
「肯定的なものも否定的なものも関係なく混ぜなさい、なぜならそれらは基本的に全部、的外れだからです」と。「私は自分をこのように見なしている。でもそれは、実際の私ではない。なぜなら、私の心は神の心の一部だからだ。私の心は愛の表現なんだ。私は愛の表現なんだ。私はとても神聖だ」

ここでひと言申し上げておきます。「とても」という言葉は必要ありません。あなたは「神聖」か「神聖でない」かのどちらかでしかありません。ですから、「多少は」神聖だとか(笑)そんなものはありません。あなたは神性の表現であるかそうでないかのどちらかです。

私が考えるに、「とても」という語が入ったのは、単に文章の中の言葉の響きを整えるためだったんでしょう。だって、「私の心は神の心の一部である。私は神聖だ」じゃ、唐突に聞こえますものね!「とても」を入れることで、文章に優美さが加わりますね。「私は部分的に神聖」「私はとても神聖」「私はほんのちょっとだけ神聖」なんて、意味が通らないじゃない?

あなたは神聖です。以上、終了!

レッスンでは「私は自分自身を○○だと見なしている」という形式を用いるよう促していますが、私はこれには理由があると思っています。

前に、レッスンは私たちを観察者の立場に立ち返らせるのが目的だとお話しましたね。このレッスンもそれなんです。「私は自分自身を○○だと見なしている」ということで、「私は自覚していて、気づいている観察者だ、私はエゴが自身に関して信じていることを観察し、見守っている。」と言っていることになります。

観察している大きな観察者としての私と、これらの属性が適用される小さな架空の自分との間には、違いがあるということ。

これは本当に重要な転換で、今、私達は、知覚されるものから知覚するものへと移行し、最終的には知覚する者の特性を身に着けるのです。そう、あなたと私、私たちは知覚する者なんですよ。

では素晴らしい一日をお過ごしくださいね。
私たちが今信じていることは100%間違っていて、その全く逆の視点に戻ろうとしているところです。
私は永遠の全能の無限の永遠の愛の表現者なのです!

良い一日を。バ~イ!

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