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キャロルさんの奇跡講座レッスン #15

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖

キャロルさんの奇跡講座レッスン15 元の講義はこちら→ A Course In Miracles- Lesson 15 - YouTube

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ご機嫌よう親愛なる皆さん!さあレッスン第15回です。

「私が考えている様々なことは、私が作り出したイメージだ」

レッスンでは早いうちからずっと、思考と形象/イメージは結びついているという概念が繰り返し強調されていますね。

言っておきますが、このコースは弱虫には向きません。このコースは私の友人が言ったように、ある時点で「もういい、こんなことはうんざりだ、こことは違うもっと遠くへ行くんだ」という境地に立った人のためのものです。「生きるとはどういうことかを絶対に知るんだ」「答えが欲しい」「これよりもっと良い生き方があるはずだ」「何かを見失っている気がするけれど、その何かをはっきりと掴むことができない」と感じている人のためのものなんです。

そしてその「見失われているもの」とは、直接の愛の体験です。実相にいる私達の愛の体験なのです。私達が抱いている、あらゆる愛のないイメージや考え、利己的な考えが、愛の体験との間に覆いをかけ、障害物を置いてしまっているのです。

そこで、形象とは実はただの影の形だとみなすことが役に立つでしょう。影を見て混乱する人なんていませんね。ある光源があって、それが何かを照らすと壁に影ができます。あなたはその影が実体をもつ形だとは思いません。それは見た目どおり、ただの影です。

理解しづらい概念ですが、私たちの世界にある形象は、実は3次元的影なんです(私が作った造語ですが、わかってもらえるかしら)。それらには実体がありません。

レッスンではこう書いていますね、実体のない形象としての影がこの世界に入り込む方法は、私達の肉体の目を通してだと。

そこであなたはこう思いますね、「何だって!?私の目はそこに存在している客観的事実を検知する体の器官だと思ってますけど!?」

ですが、レッスン15までに、あなた方は既に客観的事実など存在しないということを学んで来ました(笑)ですから、この目は私が現実だと決めたものを外側に置いて見ているということです。

目は外側にモノを置いてから、「あら!私が目にしているものを見て!」と考えるのですが、まずそもそも自分が最初にそのモノをそこに置いたことを無視しています。そしてモノをどんなふうにそこに置くのかは、あなたの考え方に基づいています。

レッスンではこう言ってるわね、「わかっていますよ、最初はこれはピンと来ないでしょう、でもいずれあなたは、ある時点でちょっとした「光の出現」を体験をし始めます」と。

私の長いコース歴の間には、ほんの短い一瞬の光の瞬きを見たこともあれば、光の縁取りが見えたり、また時にはもっと全体的に広がる光を見たこともありますが、レッスンにはこう書いています。「光の出現を怖がらなくていいですよ、それは、あなたの意識がある方向に変わりつつあるということ以外に特に深い意味はないのです。その光は「真の知覚」を象徴しているのですよ」と。

さて「真の知覚」という言葉が登場するのはこのレッスンが最初ですが、では「真の知覚」とは何なのでしょう。

「真の知覚」とは、私たちが形の世界と信じているものの中で機能し、私達が 「これ(形)に騙されたりしない。これは実体を持っていない。私はこれに命令されたりしないし、犠牲者でもない。これは外側に現れた私の思考の連なりに過ぎない」ということを知るだけのことです。

これによって、私たちにはほんの少し、朧げにヴェールが見え始めるのです。それは「無」というのに近いでしょう。

この知覚により私達はもっと気楽に世界について、「こんなのに騙されないわ」「私の目がこれを外側に置いたことに欺かれたりしない」と受け止めるようになるでしょう。

その過程を通して、やがて愛が私たちにとって明らかになる瞬間へ至る道、すなわち「智識」が明らかになる道が出来ていくのです。

そこへ辿り着くまでの道のりの上で、レッスンは3回のちょっとした練習をするよう導いています。

1日に3回ほど1分程度、激しい怒りを覚えない限り、繰り返してください。

いつものように何気なく辺りを見回し、目が留まるものに無作為に適用します。例えば、ゴミ箱。

「このゴミ箱は、私が作り上げたイメージ/形象なんだ」「私の目がそこに置いたイメージなんだ」そこは私が言葉を付け加えたんですが、レッスンに実際書いてあるのはこうです。

「この( ゴミ箱 )は、私が作り出したイメージだ」
「この(   私が上げている手 )は、私が作り出したイメージだ」

私たちにはこう考える傾向がありますよね、「ゴミ箱は自分が作ったイメージかもしれないが、私の身体はそうじゃない、それは絶対にイメージなんかじゃない」いえいえ、そうなんです。だから無差別に、区別をつけず目に留まるものなら何にでもこの概念を当てはめてもらいたいの。

数は多くなくても構いませんから、目に留まったものに区別をつけずに練習対象として注意を向け、言葉を意識しながら繰り返します。「このコンピュータは私が作り出した形象だ、私の目が見ようとしてそこに置いたんだ、この背後には私の思考プロセスが働いているんだ」

ただこれをやってみてください。できるだけ気楽にね。

何度も言うようですが、これは、この世界が堅固で実体のあるもので、私達に何をすべきかを指図する世界だという考え方を外そうとしているんです。私たちは完全にそれをひっくり返そうとして、こう言っているんですね。
「いいえ!私が作った世界が鏡のようにそこに置いてあるんだ」と。

私は鏡というアナロジーが大好き。いつもそれを使ってます。きっとこの一年が終わるまでにこれから何度も使うことになるわね。

鏡に映る映像があなたに何かをしますか?いいえ、それは単にそこにあって、あなたを映しています。あなたそっくりに見えます。あなたが着ているものを着ていて、あなたが動くとおりに動きます。あなたが鏡に近づくと、映像もあなたに近づきます。もしあなたが泣いたりわめいたりすれば、鏡の中のイメージも同じようにするでしょう。

世界はあなたの思考プロセスの鏡です。それは細かい詳細に至るまで、忠実にあなたの思考の性質を反映しています。

それを一旦分かってしまえば、あなたの世界は、あなたを診断するのに役立つものとなりますよね(笑)それはあなたに何が起こっているかを知らせてくれる、とても役に立つ便利な情報を提供してくれるものとなります。

「私の考えていることとは、この肉体の目が作り出したイメージのことである」

なんと驚くべき概念でしょう!

驚くべき1日を過ごしてね♪
バーイ!


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