今まで生きてきた私の人生〜高校生活、発達障害等々二次障害併発編〜
どうもどうも。こんばんは。
さくらです。
昨日は投稿出来ずすいません
謎に疲れきってました。
私の投稿を初めてご覧になる方は「初めまして」の記事から読んでください。
前回の記事をご覧になってない方は、「今まで生きてきた私の人生〜小中学校編〜」を読んでもらうと話が繋がりますよ!
それでは、本題に行きましょう。
中学時代散々だったのは前回の記事をご覧になってる方はお分かりだと思います。
本当は、全日制の高校を志望校にしてましたが、授業もロクに受けず、不登校、遅刻魔だった私には夢みたいなところだったので、高校は地元の単位制の定時制通信制高校に入りました。
軽く説明をすれば
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定時制では、昼間部と夜間部、学科は普通科と商業科がありました。
昼間部は3年間での卒業を目指す、夜間部は4年間での卒業を目指すというシステム。
通信制は、毎週日月のスクーリングと自分が取った教科のレポート。期間厳守での提出とテスト、スクーリングの出席状況等で、自宅学習がきちんと出来る人、提出期限等が守れる人が、晴れて卒業が出来ます。3年間の在学というのは変わりません。ただ、通信制は全て自己責任になってくるのでそこは要注意だと思います。
スクーリングに関しては、県内にスクーリング協力校が数校あるのでそこでスクーリングを受けることも可能です。
説明はこのくらいにして。
私は、様々なシステムがある中で定時制、昼間部の商業科を選びました。
卒業して7年ほど経ちますが、この高校は本当に想い入れが強い大切な母校です。
結論からいえば、高校は単位ギリギリ3年で卒業しました。
それまでには、いろいろありすぎて本気で退学を考えたこともあります。高1の時も、もちろんいじめはあったわけで…でもそんなことは決して許さないのがこの高校。先生方や友人たちが全力でフォローしてくれようとしてくれたのにも関わらず中学時代でのトラウマを抱えていた私はそんな先生方や友人たちの想いには気付くことが出来ず、寄り添おうしてくれる先生方をひたすら避けたり無視したりしてました。友人たちには軽く話す程度で済ませてました。おそらくこの当時は「これ以上近づくな」って思ってたんだと思います。高1の時はほぼ、必履修科目で、その中に商業科目がチラチラ入ってる感じだったのでテキトーに受けて全ての授業が終わり帰るというサイクルを繰り返してましたね。何とか死にものぐるいでの1年間が終わり無事に進級が出来ました。
2年生になりHR担任が変わりました。その先生とは今でも連絡取り合っています。
2年生になると、1年の時のHR担任と相談しつつ自分で決めた時間割になるので、学年もバラバラ、同じ学科の子たちともバラバラになりました。
先輩方とも授業が一緒になるので、他愛もない話をするのは楽しかったです!
ただ、夕方以降に組まれてる商業科目の授業になると同じ学年学科の子たち全員集合してましたね(笑)
でも、高1の時に必死に寄り添おうとしてくれた人たちを避け続けた結果、精神の歯車が壊れ始めました。それは多分6月頃だったと思います。母親の迎えを待ってる間、自然と出入りするようになってた保健室にいました。すると保健室の先生がいきなり私に紙袋を渡し、「この袋の中で呼吸して!」と言うので全く理解できないままただその先生の言うことに従いました。どうやら私は過呼吸発作を起こしてたらしく、収まったのはいいものの立ち上がることが出来なかったのは覚えてます。まさかこれから先この過呼吸発作というものに長く苦しめられたのは読み進めれば分かります。
この初発作を起こした日を境に私の高校生活は激変していきました。授業中にも発作が起きる、体調悪くて保健室に向かってる途中で発作が起きる等々、とにかく悩まされました。気付いた時には、誰かの肩を借りないと歩けない、階段の昇り降りすることが出来なくなっていて、それを見てた先生方から「お前の階段の昇り降り、危なっかしくて見てられん。転げ落ちるっちゃないかって心配になるから手すり持て!手すり!」と言われてた程です。この辺りから音にも過敏に反応するようになってましたね。とにかくフラつきが酷くてまともに立ってることさえできませんでした。
私は、こんな状態でいくら昼からでも学校なんて行けるわけないし授業すら無理になる。と思ってたので、母親に相談するも即却下。でも、先生方からの話も少しは聞いていたらしく、それで折れてくれたのかやっと心療内科に連れてってくれました。その症状が出るようになって既に6ヶ月が経とうとしてるとこでした。
私が最初に行った病院では、個人病院で入院設備等はなく、心療内科、小児科 兼 発達外来がありました。まずはそこの小児科 兼 発達外来に呼ばれ何かアンケートを書きました。
すると、その先生から「自閉症スペクトラム障害」と聞き慣れない病名を告げられました。音に敏感なのも、この障害の特性だと言われました。これは、多くある発達障害を1つに統合したもので、発達障害であるのは変わらないそうです。でも、その発達障害だけでは語れない多くの症状を併発していたので念の為そのまま同じ病院内の心療内科に紹介されました。その日の心療内科では検査のみで次は2週間後と言われ数種類の薬を処方されました。2週間後行くと、「自律神経失調症」「対人恐怖症」と診断されました。とりあえず紹介状を書いてもらい他の病院で脳波を撮っていたのですが、この時は異常無しでした。
実は、先生に対人恐怖症って言われた時、何故か納得してる自分がいて中3の受験前、既に「人が怖い」と思っていたのを思いだして、「なるほどね、だから、人混みが無理だったりしたのか!」と1人で納得してました。これは今でも続いています。
だけど、体調悪くて保健室に行くことが多くなっていたのは事実で前期の時点で単位をかなり落としていました。ある日突然「このままだと進級は難しい。半年延びるかな、これからどうするか自分の体調と相談しながら一緒に考えよ!」とHR担任に言われました。
でも、3年で卒業したいという思いは絶対だったし、仮に3年で卒業しなかったらどうなるかは目に見えてたので、「定通併修」という制度?を使い、先ほど説明した通信制も使い、2年の後期と学年が上がった3年の前期の1年間通信制と定時制を行き来するようになってました。そのおかげで、通信制の先生方や通信制の人たちとも仲良くなることが出来たのはいい思い出でしたね(笑)
バイトしたり、自動車学校通ったり、頑張ったバイト代で美容室行って髪染めたり、体調と相談しながらそれなりに高校生活を楽しんでました。、
その中でも過呼吸発作が襲ってくることに変わりはなく、常にタオルと頓服でもらってた安定剤を持ち歩いてました。
ホントに死ぬのかなって思ったのは、高校最後の夏休みが終わり1週間ほど経った時、過呼吸発作が出るようになり、月〜金まで1日数回を毎日毎日、発作が起きて、もう金曜日には体力の限界で教室で倒れ込んでしまいました。この時の記憶はあまりなく、高3のHR担任から聞いた話では、「先生方が結構な人数来て、担架で保健室まで運んだ」とのことで、「あ、やってしまった。」と思ったけどその時にはもう寝てたみたいです。
バイト先でも起きたりしてたので、バイトも辞めて、自動車学校は、薬飲んで行ったりしてました。
でも、この頃の薬の量は初診で行った時の倍の量になってました。
卒業テストも無事に終わり、宅習期間に入ってからは、とにかく暇でした(笑)
本免も受かり免許証持ってたけど、車には乗ること無かったですねw
強いていえば、友達と卒業旅行という名の日帰りで大分行ったりしてました。
私の高校は、3年生を送る会みたいなかんじで、予餞会というものがあり、先生方からのビデオメッセージと一人一人名前を呼ばれてキャンドルサービスがありました。
次の日に卒業式の予行。全体のが終わったら3年生だけ残って、卒業証書授与の練習。
これはさすがに眠かった(笑)
本当は、過呼吸や対人恐怖症を持ってたこともあり卒業式への参加はかなり躊躇してました。最悪、校長室での受け取りも考えてたほどです。でも、それも何か嫌だったので何度も何度もいろんな先生方と話し合った結果、証書授与がトップバッターだったしそれが影響して式に参加出来ないかもしれない、途中でなにか起きるかもしれない他にも予期せぬ出来事があるかもといろいろ考慮してくれて、私がお願いして仲良しの友達2人も一緒に、時間厳守を条件で卒業生の集合ときには私含め3人は保健室集合にしてくれました。他の卒業生の説明が終わって、学年の先生方が保健室に来てくれて、改めて連絡事項を聞きました。
ちなみに私は、友達と2人だけだったけど袴で卒業式に出席しました。何かあったらいけないともう1人袴で出席した友達が隣に座ってくれて、先生方の心配をよそに何事もなく、ただただ泣いて泣いての卒業式でした。
卒業後、HR担任から卒業式の時の写真等が届き、写真を見て、改めて先生方の優しさに涙が出ました。証書授与の時、檀上にあがってすぐ側に、1年の時のHR担任が待機してました。でもその写真にはもう1人が居たってことに、写真を見て気付きました。(写真には不審者みたいに写ってたから少し笑ったw)それくらい、色々考えて下さってたんだなとその写真を見て思いました。
次は…といいたいとこですが、高校の出来事だけでかなり長くなってしまったので、専門学校から以降のことは、次回の投稿に回したいと思います。大変申し訳ありません
前回の小中学校編は、かなり重い内容になってしまったので、高校編は、それなりに楽しかったので、その出来事も書いてみました。
次回も長くなりそうなので、気長に見てください。
ちなみに次回は「今まで生きてきた私の人生〜専門学校、新たな出会いからの病名追加そして別れ編〜」を書きたいと思います。
ここで、私から注意点!
私が高校在学当時、過呼吸の対処法として紙袋等を使うペーパーバックが行われてましたが、今では、適切な対処法ではありません。あとで聞いた話ですがこの当時もギリギリボーダーラインだったそうです。この対応をしたことによる死亡例もあるので、過呼吸をお持ちの方はゆっくり呼吸することを意識して、過呼吸起こしたりする方が周りにいらっしゃる方は、決してこの対処法は行わず、落ち着いてゆっくり声掛けをしてあげてくださいね!
(という私は、過呼吸が起きるとそれどころじゃなくなるので、説得力ないですが…😑)
てことで、長々と読んで下さりありがとうございました!
今日はこの辺で!
お疲れ様でした(笑)
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