ginza sony park

先日、浜離宮から散歩して銀座まで、歩いていた。

聖路加病院近くの隅田川は、なぜか切ない。とっぷり日が暮れると、街灯のない日の街並みが思い浮かび、ああ、これかと、「橋づくし」って。

思春期のさまよう刃と共に歩き、十代ってどうやって乗り切ったんだっけ。と振り返っていた。

ひとまず、音楽と文字を書くことが、表出手段としてあって、書いたノートを人に読んでもらって、ミックステープを毎週作ってくる方がおり、あれ、なんで、あれ、始まったのか、わからないけれど、

二人がおんなじ曲をミックスして、同時に持ってくるから、それを聴いて、感想をくれ、というので、ひたすら聞きて、感想を書く、という遊びをやっていた。

音楽の趣味、まったく合わない3人だったのに、不思議なら遊びでした。

銀座には、呑みに行く時は、誰かの接待で呑まされる、か、映画か、着物を見にいくか、和紙専門店があるので、遊びの書の和紙を見に行くぐらいで、待ち合わせが銀座だと、なに着て行こうか、悩む、で、着物が一番しっくりくるなぁと着物で歩くと落ち着く街だ。時計を見ることなく、概ね空の色とお腹のムシで時間はわかるが、時計塔は、眺めたくなる。

しっとり、のんびり、しかし、寿司屋は、活気があって、さほど呑めないのに、ついつい日本酒を冷酒でくいっといっておこうかといい気になってしまう。

江戸って、ほんとけんかっぱやいんだな、厨房の音を聞き耳たてて、思う。

路地裏は、本当に路地裏で抜け道だったりして、これは、お店のスタッフとお客さんが鉢合わせしない仕組みになっていて、とある女将に、髪、背中についてるわよ、なんて、通りすぎた後に話しかけられると、ぞっとする。商いを営む人の目は厳しく、ほんとうによく見ている。

もてなす人は、どんな所作で迎えたらよいのか、楽しませる方も存分に楽しんでいるようで、ピリリっとしている。

うっかり散歩中、タイムトリップする。わたしを誰も知らない時へ。

しかし、ばったり、誰かに遭遇してしまう。

park liveがあり、聴き入る。

いま、見たい、会いたいと思えるアーティストの音は聴いておきたい。

そして、無音のラストも大事にしておきたい。

音のない時間は、呼吸の時間。


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