口惜しみ日記


梨うまいさんの「くやしみノート」を読んでいる。

うううーこれは、一度でも物作りの現場にいたことがある方は、ビリビリ感ずる思いではないかと思います。

いいなぁ、と思える音楽や小説など、目の当たりにすると、うわっこれは、いい!!とリピートして聴いたり読んだりしてしまいますが、その作品の渦中に身を置いていない自分にはらわた煮えくり返すほどの嫉妬心とくやしさやものを生み出せていない、苦しみに悶える。しかし、いいなあ、ということは、否定し難い。

そののたうちまわる姿が目に浮かぶ。

何かを作れば、評価に四苦八苦するでしょう。次の作品なんてあるのか?と毎回、遺作だよな、と思っていて、ちょうどよい。

20代の終わりに、とある上映会のあと、打ち上げに誘われて、行ったはいいが、当時、自分がやり切ったなぁと思える作品がこれといってなく、会社員として、番組制作に明け暮れて、睡眠不足も常時続くと、目の下のクマは、歌舞伎か?というぐらい濃いものに。ろくに何も読み書きもせず、映画も観ることなく、音楽だけは、なぜか聴いていたけれど。最終的には、わけのわからないおじさん(映画監督)と大げんかして、頭から氷水と赤ワインと醤油をかぶって、飲みに飲み切って、終電に乗れず、どこにも戻りたく無いと、帰り道に、改札口でへたりこんで、ひと目も憚らず大泣きしていた。らしい。そんな、どうしようもない人にとある監督が、声をかけてくださって、わかっているでしょうが、こんな時

「どうした?」

と、聞くのが監督である。

「自分の作品がないことが悔しいだけ」

と、大泣きしていた。らしい。らしいではない、「くやしみノート」を読んで思い出した。

その後、何も言わず手を差し伸べてくださった監督は、無言でついて来てくださり、日本橋から当時住んでいた、阿佐ヶ谷まで、何もお話しなかった記憶があり、ひたすら歩いて、朝方、何を思ったか、定かではありませんが、朝方の空の青さは、覚えています。

「くやしみ」を消化するには、ものを作るしかないんではないかな。




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