記憶の行方#対称性とその破れ

「対称性とその破れ」で、Google Scalaを検索すると、読める論文が出てくる。

久々に物理の教科書をパラパラめくり、へぇーと、読んでしまっている。

「時間は存在しない」も面白いタイトルだけれど。

「対称性とその破れ」このタイトルは、大当たりなタイトルで、興味がそそられます。

自然の法則を紐とくって、美しいですね。

一昨日「対称性とその破れ」について、講義を聴く機会が偶然あり、聴いてしまった。面白い。教授と呼ばれる方の話はだいたい面白い。

人文学では、作家は、「なぜ書くのか?」「人はなぜ生きるのか?」ってところを問うわけですが、つい先日の話を聞いていて、物理も最終的に行きつくのは、おんなじテーマではないかなぁと思った。

鏡にうつる顔、概ね対称ですが、人間の身体、特に内臓は、非対称です。

人が生まれてくる時に、産道を回転しながら、生まれてくるのですが、その時に左に回転しながら生まれてきます。

これは、心臓や内臓は大きく左に位置しているので、左に回転の方が重心移動がうまくいくのではないか?という説があり、重力と自分の身体の感覚を子どもはわかっており、出てこようとする、って解釈。

前庭覚(揺れる感覚など)は、生命誕生約5周目から耳の記憶として残り、心肺停止した後も耳の残響は残ったままと言われる。聴いて、自分で決めて人間は生まれてくるのかな。

難聴と診断される場合も、骨伝導で、音は捉えられる。

羊水での記憶は、水の中での音の記憶が残っているのではないかな。雨音が懐かしく思えるのは、羊水の中の記憶に触れているからではないかと思う。

水の中に潜るとその記憶は蘇る。

また、別の記憶に変わっているかもしれないのだけれど。

話が、それた。

自然分娩で生まれてくるお子さんは、自分で生まれてきた自負があり、まず、自己肯定感が違うのでは?なんて、思う瞬間があります。

また、話がそれた、

「対称性とその破れ」の「破れ」が実は、色んなものを作っているわけで、

なに?それ?なんでなんでー?と気になってしまっている。

破れに気づいたことが、面白い発見。でも、それはどうしてなの?現状、わからないってことも面白い。

わからなさを面白がれるのは、いつからでしょうね。

ほころび?スキマ?産道?なんて、書くと、すぐ子宮でものを考えるのどうなの?って言われそうですが、

自然を見つめると、人間が無理な綻びをどうにかしようとして、いろんなものを生み出そうとする。


きっちり調整されたピアノの音は緊張する。正し過ぎる音は、どこか疲れてしまう。

少し壊れた、調整可能な音は、ほころびだらけですが、安心してしまう。

その破れの間に風が通り、空気を振動する音が聴こえる。

雪にならなかった雨がぽつぽつ、久しぶりにさした傘をぬらす。

向田邦子さんの文章は、毒舌。読めば読むほど、自他と向き合うことを余儀なくされる。

移動中は、エッセイを読むとバスの移動は、あっという間で、ユーモア大事だな、と、記憶に残したい言葉の連なりに、胸が躍る。

あれ、「非対称とその破れ」について、何も書いてないな。

それは、また、別の機会に。





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