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夫のこと(備忘録)

私の夫の仕事は、オーケストラの指揮者です。
そう言うと大抵の人にカッコいい!と言われますが、そんな感じではありません。
夫は地味で地道な指揮者です。

指揮者になるためには小さい頃から音楽教育を受けて専門の知識を身につけ音楽大学に入り、卒業してからもさらに研鑽を積む。
指揮者は自分が音を出さない代わりによ〜く勉強して曲を理解することが大切です。

夫が指揮者になりたいと思い始めたのは高校1年の時でした。
それまで1度も専門的な音楽教育は受けたことは無く、音楽の世界がどんな世界かも全く知りませんでした。


指揮者になりたい!

1970年、大阪で開催された万国博覧会に世界の名だたる指揮者やオーケストラが次々に来日し、大阪中之島フェスティバルホールでは連日のようにコンサートが行われた。
当時高校1年生だった夫はベルリンフィルをはじめ、来日オーケストラの全ての公演を聴き、大変な衝撃を受けた。

幼少の頃からクラシック音楽が大好きだった彼はこの経験を機に、音楽への憧れと愛がさらに強まり、指揮者になりたいと強く思い始めた。

高校では合唱部に在籍していた。
指揮者として楽しく過ごしてきた部活も3年生になり、いよいよ入試に向けて進路をはっきりさせなくてはならない時期になった。

音楽の道に進みたいことを両親に話すと、当然反対された。
自宅で商売をしていた両親にとって、息子が音楽の道に進むなんてありえないことだった。
しかし、夫は必死に両親を説得しなんとか許しを得ることができた。

そして、音楽大学の入学試験を受けるため、正しくは、面接で先生方に話を聞いて頂くため東京に向かった。

受験、そして浪人生活

音大の入試は一般的に専攻実技、音楽理論、聴音ソルフェージュ、学科(国語、英語など)そして面接がある。
音楽の勉強など何もして来なかった彼は、まずは面接でこれから先、何をどう勉強したら良いのかを先生方に聞きたかったのだそうだ。

そんなこと、今だったら非常識極まりないことだ。いや、その当時でも先生方は驚いたに違いない。しかし、先生方は真剣に話を聞いてくださった。

当時の面接官の顔ぶれは日本の、あるいは世界の音楽史に残るそうそうたる面々。

「僕は将来指揮者になりたいのですが、今から何を勉強すれば良いですか?」

そんなすっとんきょうな彼の質問に、
「指揮者はオーケストラの中の楽器ができた方が良いから、今から始めるのならコントラバスかファゴットを弾(吹)けるようになること。それとピアノ、音楽理論、聴音、ソルフェージュを勉強してまた来年いらっしゃい。」
と、有難くも学長からアドバイスを頂き、さっそく東京での浪人生活が始まった。

とにかく彼は頑張った。
早期英才教育で有名なその音大の附属音楽教室の、4、5歳児と机を並べてソルフェージュや聴音を勉強する。
しかもその子どもたちの方がよくできるわけで…
それでもめげずに頑張った。

そして翌年合格した。

病気との闘い

奇しくも合格した年の夏の終わり、入試の面接の時に色々と教えてくださった学長が亡くなった。彼はショックを受け、自身も体調を崩ししばらく実家に帰っていた。
なかなか回復せず、どんどん具合が悪くなっていった。
病院を変え検査した所、胸膜炎に罹っていることがわかり、入院することになった。
20歳。念願かなってこれからという時に。
肺には水が溜まり熱も高く、息もできないほど衰弱していた。
身体も気持ちも辛く、悶々とした日々。どれだけ情けなかったことだろう。

入院生活は長引いた。
けれど当時は病院も今と違っておおらかだった。
彼の病室はいつも音楽が溢れていた。
体調の良い時は看護婦さんと音楽会に出かけたり、主治医の先生や他の部屋の患者さんが来てくれて音楽談義に花が咲いたり。
このことは、辛い入院生活の中で彼の支えになった。
(この時の主治医とは今もお付き合いが続いていて、ほぼ毎回夫のコンサートにはご夫妻で来てくださる。)

やがて退院はしたが体調は芳しくなく、さらに1年休学した。

この間、当然不安が何度も嵐のように押し寄せてきたが、彼は『国盗り物語』を読み耽り、そしてこれからのことや色んなこと、考えて考えて考え抜いて、しなやかに強かに楽しく前向きに努力した。

この苦しかった経験が今、夫の指揮者としての基盤になってると思う。

ふりだしにもどる

なんとか復学し、
やっと大好きな音楽のための勉強が始まった。
これからは「好き!」の気持ちだけで歩き続けることは困難だ。
でもそんなこと彼は重々わかっていた。
わかっていても、療養生活が長かったため、体力がなかなか戻らなかった。

しかし持ち前の超前向きな性格とおめでたい考え方と地味な努力でゆっくり前進していった。

いつしか学内で学生オーケストラの指揮もできるようになり、
学生生活も大詰めの頃、私たちは出会った。

私たちが出会ったのは私が2回生。彼は学部を卒業し、研究科の1年だった。

出会って、そして

ある時、人を介して指揮伴(指揮の勉強するための伴奏)を頼まれた。
レッスン室に行ってみるとスコアと睨めっこしている学生がいた。 
ひょろっとして色白で、うつむき加減な様子は高校生かと思うほど幼く見えた。
これが夫と初めての出会い。
そして、「彼の音楽」との出会いだった。

私は何人かの指揮者(学生)の伴奏をしていたが、形(指揮のフォーム)にとらわれる学生も多く、そんな時は伴奏者は置き去りにされるのだった。

夫の指揮はひたむきで、内に秘めた音楽はとても美しかった。けれど、格好はサマになっていない。まだまだぎこちない。
何かしら伝わってくるものはあるのに、表に(指揮棒に)出てこない。

ある日、指揮科の客員教授がボストンから一時帰国され、彼はレッスンを受けることになった。
彼が選んだ曲はシューマンの交響曲第1番『春』。
特別レッスンの時は専属ピアニストがいる。
私は小窓から覗いて見ていた。
相変わらずぎこちない指揮だけど、伝えようとする何かがある。
そして私は彼の音楽が好きだ!と思った。

この頃に、彼は自分の将来を見据え大きな決断をした。
地元関西のオーケストラに所属することと、私と結婚すること。

ちょうど大阪のオーケストラからコントラバス奏者と副指揮者として来ないかと声を掛けて頂いた。

彼は迷うことなく、研究科を1年で退学し、在籍していた神奈川フィルハーモニーも退団し大阪に戻った。

私たちは付き合い始めてまだ半年も経っていなかったが、彼の中では着々と準備が進んでいた。
そして、私が卒業したら結婚すると決めていた。

でこぼこ道を歩き始める

しかし、それから結婚するまでの4年ほどの間に、父は癌になり、母がくも膜下出血で倒れ、彼の父が急死した。
これでは結婚は無理だと思ったが、
母は完治し、父もそれにつられて回復した。
いくつかの試練を乗り越え、晴れて私たちは結婚した。


大阪では、彼が入団してまもなくオーケストラは名前を変え、体制も常任指揮者も代わり、副指揮者のポジションは無くなった。

けれど最初の2年だけでも副指揮の仕事をさせてもらい、指揮活動が絶えることなくとてもラッキーだった。

オーケストラも当時はまだまだ仕事が少なくて、彼はしょっちゅう家にいた。
そして、よく風邪ひいた。暇さえあれば寝ていた。
教える仕事をしていた私の方が忙しかった。
仕事から帰宅するとご飯ができているわけはなく、私が作る間、彼は胸の上で手を組んで静かに寝ていた。まだ病抜けしていないように見えた。

結婚の許可を得るために私の両親の元へ挨拶に来た時、彼が父に胸の病気のことを言うと、「そんな事は気にしない。」と言った。
その代わり私に、「彼に何かあった時、お前が食べさせていけるなら結婚を許す」と。
私は若かった。「大丈夫!そうなったらなんとかする!」と答えた。
そう答えたものの新婚早々、いつもしんどそうで心配したものだ。

結局、柳に枝折れなしで運良く病気もせず今に至っている。
68歳の今の方が新婚時代よりずっと元気だ。

オーケストラ内での副指揮の仕事は無くなったが、地元のいくつかの大学のオーケストラ部から、トレーナーの仕事が舞い込んだ。
そして、アマチュアオーケストラのトレーナーも少しずつ増え、本番も指揮させてもらえることも増えてきた。
普段はプロオーケストラの団員。
そして、依頼があればトレーナーに行くという日々が続いていた。

最大の試練

そして結婚して8年目に長男を授かった。
2度の流産を経ての妊娠。安定するまで入院して、夫立ち会いで出産。息子の産声と夫の泣き声が一緒になって可笑しかった。

可愛い家族が増えたと言うのに、夫は寝込むことが増えた。
今思えば、子どもができて責任も生じて、妻である私はしばらく産休で収入面でも大いに不安だったのだろう。
やがて子どものいる生活にも慣れてきて、私も仕事に復帰した。
子どもがいて、音楽があって、彼はとても幸せだった。
そんなある日、息子がインフルエンザに罹り脳症をおこして亡くなった。
私は、消えてしまいたかった。
後悔、後悔、後悔しかなかった。
しかし、夫は懸命に生きた。喘ぎながらもがき苦しみながら音楽して、たくさん音楽して、前を向いて生きた。

同じ年の12月、娘が生まれた。
24日の予定日だったが、2週間も早く、息子の月命日に生まれた。

はじめの一歩

娘が生まれてから、夫は生まれ変わったように強くなった。
また少しずつ色々なオーケストラからも声をかかるようになってきた。

4、5年経った頃、
トレーナーとしてお世話になっているオーケストラの定期演奏会で『シベリウス交響曲第2番』を演奏した。
この本番に向けて勉強している様子は今までとは違っていた。
身体が何かに包まれているみたいで、話しかけても遠いところにいるような、ここにいるのにここにいないような…。

「僕のどこを切ってもシベリウスや!」
言うだけのことはあった。
この日を境に、彼は指揮者として一段、階段を上った気がした。

両立、そして決断

さらにあちこちのオーケストラから声をかけて頂き、気がつけば所属オーケストラとのやりくりがとても難しくなっていた。

依頼される仕事は断りたくない。しかし、所属するオーケストラは休めない。

日本のオケマンのほとんどは、所属オーケストラの仕事だけでは食べていけないので、教えたり、単独で演奏活動して収入を得ている人たちは多い。
夫もまたしかりだった。
オケの収入だけではとても足りない。だから、他でこうしてオーケストラの指揮の仕事があるのは本当に有り難かったのだ。
でも、オケのパートのメンバーたちはそれを心良くは思っていなかった。

夫はいつかは所属オーケストラを退団し、指揮一本でやっていきたいと思っていた。
しかし、家族のことを思うと、「今はその時ではない」と、何度か涙を飲んだ。
嫌がらせを受けながら、そして睡眠障害に陥りながらも何度か頑張って危機を乗り越えてきた。

ある時転機はやってきた。
所属オーケストラの定期演奏会と、トレーナーに行っているオーケストラの定期演奏会の日時が重なった。
所属オーケストラの定期演奏会は絶対に休めないのだ。
けれど夫はこれを機に所属オーケストラの退団を決め、アマチュアオーケストラの定期演奏会を選んだ。

もちろん大いに悩んだ。
娘の大学受験と、そして母親が酷い認知症で徘徊が始まっていた。
これから最もお金がかかる時期。

けれど決断に至った理由があった。
このオーケストラの定期演奏会で演奏される曲は、音大入試の面接でアドバイスをくださった母校の学長の編曲によるバッハの『シャコンヌ』だった。

「この曲が決まった時、先生に背中を押された気がしてん!」

夫は所属オーケストラにはなんの未練もなく退団し、指揮者として歩み始めた。

指揮者のたまごになる

57歳で早期退職し、ホームページやチラシを作り、有志を募ってオーケストラを作った。
しかし1、2度、本番はあったものの、いつの間にか自然消滅。
今までの忙しさに比べると3分の1ほどの仕事の数。
でもそれも想定内。
「やることやっていれば、あとは神さまが決めること」と、相変わらずスコアは読み続けていた。

フリーになって1年経った頃、
プロオケ時代、指揮の仕事の話が来ても休みが取れず涙を飲んで断っていたいくつかの団体から依頼が来始めた。
あぁこれからは断らなくて良いんだ!私は胸のつかえがとれたようだった。

その後も、夫の音楽が好きで一緒にやりたいという人たちが集まって、新たにオーケストラができた。
有り難すぎる。夫は幸せものだ。

そして指揮者としてやや軌道に乗ってきた時、
コロナ禍がやってきた。

たまご、試される

この大事件は音楽の世界でも大打撃だった。
中でも管楽器は学校のリコーダー同様、敬遠された。
2年先の決まっていた演奏会はほぼ中止、よくて延期になった。
先が全く見えない中、弦楽器の人たちが中心になり、「ほぼ収入が無くなってしまった先生にお仕事を〜!」ということで、弦楽アンサンブルを作ってくださった。
なんて奇特な方たちなのだ!!
コロナ禍、この弦楽アンサンブルの存在にどれだけ助けられたわからない。

2022年になると、感染対策をしっかりやりながら、オーケストラの活動がほぼ戻ってきた。

夫と音楽がやりたい!という人たちの輪はどんどん広がってきた。
オーケストラの持ち込み企画があったり、音楽雑誌の取材があったり。

たまごからひよっこ、そして…

そしてこの6月。
2020年6月に開催されるはずだった定期演奏会が、3年越しで実現した。
メインはエルガーの交響曲第1番。
この曲は近年にないほど悩み、苦しんでいた。
本番が近づいたある日の練習終わり、オーケストラのインスペクターさんの言葉にハッとしたそうだ。
「この曲、ほんとうに難しいのに、練習が終わった後、なぜだか幸せな気持ちになりますね。」

1時間ほどの大曲。
今回ももちろん暗譜。暗譜すると、奏者の皆さんとアイコンタクトが取れるのでできれば暗譜はしたいという。
難解なこの曲を、あれ?どこかで聴いたことがあるような…というふうにお客さまを誘いたいと言っていた。


私は2階席の一番前の真ん中に座った。
曲が始まり、少しずつ客席の気がひとつになっていくのが感じられる。
気の流れがオーケストラの皆さんに注がれる。
そしてオーケストラからも気の流れが客席に注がれる。
流れを自由に操るのは真ん中に立っている夫。
そんな感じの指揮だった。

今回のエルガーで、夫は次の扉を開いた、と思う。

スコアの中には色んな材料がいっぱいある。
それを見つけて美味しく料理するのが指揮者の役割。

彼の指揮を見ていると、指揮の恩師がレッスンで仰ったその言葉を思い出す。

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