親の離婚と再婚と私のHSP④
一人暮らしの開放感は最高だった。
8畳ワンルームの狭いアパートだったけど友達が来たり泊まったり夜中にドライブ行ったり今までできなかったことをたくさんした。
何事もダメダメと言われると必ず反動が来ると思ってる。
まさにそれだった。働きながら一人暮らししてやっと自分の人生を取り戻せた気がした。
今思えば、高校時代の毎週日曜日の夕飯当番も、毎日の朝ごはん作りも役に立ってるし大人になってみて有難かった事も確かにあるんだけど、やっぱり子供として私の事を一生懸命考えてくれたとは思えず…未だに距離を置いている。
――――ここから10年ほど話を進めます。
彼氏が出来て結婚して、妊娠した私はある日、戸籍謄本を取りに区役所へ。窓口でふと、産みの母に子供の顔を見せたいと思った。離婚した後は会っていない。でも札幌市内には住んでいるはずだと思っていた。継母もいる事だし、探したり会ったりしてはいけないという意識がどこかにあり、その時までそんな事は考えないようにしていた。
区役所の窓口で、産みの母を探す方法がないか聞いてみた。
すると「正式に探すとなると何通も戸籍謄本とか書類を揃えないといけない、本当はダメだけど端末で見てあげるから少し待って」と産みの母が生きており再婚している事と住所を教えてくれた。今はこんなこと出来ないんだろうけど。
そして帰宅してすぐ産みの母に手紙を書いた。
迷惑なら返事はいらない、もし連絡しても良いなら電話が欲しいと。
数日後、産みの母から電話が来た。20年振りに声を聞いた。「恨んでるしょ。本当にごめんね。」と言われたけど「恨んでるよ」とは言えなかった。再婚相手にも私のことは話してあるらしく、後日会えることになった。
夫と共に会いに行った母は、あたりまえだけど年老いていて、私を失ったことで長年うつ病を患っていたらしい。私の名前をつけた犬を飼っていたらしい。
本当は元気でいてくれたらその後に買い物や旅行や、今まで母と娘として出来なかった事をしたかったけど難しかった。
その後出産し、孫を抱かせることが出来て10年ほど交流することが出来た。母の日や誕生日にプレゼントをしたり一緒にご飯を食べたりできた。
母が居なくなり毎晩泣いていたあの頃の自分に伝えてあげたくなった。
まだまだこれから親孝行をと思っていた矢先、今から3年ほど前に、就寝中に突然亡くなってしまった。63歳で。元々血圧が低く通院していたようだけどはっきりとした原因はわからなかった。
葬儀の時、親戚が、私と離れた後の母の話をしていた。再婚相手との話を。「お母さんひとりぼっちじゃなくて良かったな。〇〇さん(再婚相手)いてくれてよかったよな」とおじに言われたけど、その頃私はひとりぼっちだったよと心の中で思っていた。はっきりと母に「寂しかった、私の事を捨てた事を恨んでる」と言えていれば少しは気持ちが救われたんだろうか。
今思えばきちんと再会出来たことは本当に良かったけど、私の中の子供の部分というか、親に甘える、親を頼る、という事が出来ないまま、さよならすることになったのでその気持ちが置き去りになったような形になってしまった。
そんな時、「繊細さん」とか「HSP」という言葉を耳にするようになり、自分なりに色々調べ始めた。
~⑤へ続く~
#HSP #家族の物語 #ひとりっ子 #継母 #親の再婚 #一人暮らし
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