見出し画像

「知っている」の向こう側

毎日は忙しい。めまぐるしく転がるように日々は進んで行く。早すぎるのではないかと思っても、その波に乗らなければ、自分はどこまでも墜落してしまうかのような勢いなもんだから、そんな日々に「待った」をかけることは、正常な人のすることではないように思ってしまう。立ち止まることは誰しもにとって、そして私にとっても、いつだって難しくて、怖いことである。

それでも、人生にはそんな日々から飛び出して、「ぽっかりと自分の人生だけが存在する時間」が、「それが他の何よりも圧倒的に重要だと、腹の底から思える実感」が絶対に必要だ、と思う。そうでないと、あれもこれも大事だと思って、たいして大事でもない目の前のもののために私たちは、人生を丸ごと誰かに譲ってしまったりするのだ。いとも自然に、いとも簡単に。そう、何度でも。

私にとって独立して、立ち上げた会社を退き、コロナの渦の中のなかで、子供と二人で暮らした奄美大島での日々はそういう、自分の人生以外が存在していない、まっさらな時間だったと思う。いろんな問題を自分の問題だと背負って悩む忙しい人間をお休みして、自分のことを感じて、自分のことで悩み、自分の好きを優先して、自分を貫いた時間。そこには実際何があったのだろうと、私はそっと大切なものに触れるように思い返す。あの海、あの空、あの人々。言葉よりも多くの、風景や感覚・感情が、私の中に溢れるようにこみあげる。

そこにあった取るに足らない、でも生きていく上で本当は、何よりも尊いかもしれないことごとで、私の奄美の日々は構成されていた。それを表現するにはちっぽけだと思いながらも、言葉という方法で表現して残しておこう、と私は最近やっと思えるようになった。なんだか、大切で美しくて、言葉にしたらよく聞く「そういうこと」になってしまいそうで、ちょっとだけ心細くて書けなかったものたちを。

奄美の日々にあったことごと。

奄美の日々にあったもの。それは、自分に満足する日々。洗濯物を干せる晴天に喜び、ベランダで見上げる空の美しさにため息をつき、自分がど真ん中に食べたいものを感じて、冷蔵庫とにらめっこして、自分の手でご飯を作る。料理をしても、改善点ばかりが目につく私がそんなことを手放して、昼ごはんまでに何度も「朝ごはんおいしかったなぁ」と思い返す。外で食べさせてもらうことの先には存在していない自分で自分を幸せにするという極上の満足感が、永遠の自炊には存在していた。

奄美の日々にあったもの。それは、海に暮らす日々。光に照らされてゆっくりと引いたり満ちたりしている海を、美しいと思う分だけ、何度でも見つめる。1階と2階を行き来して、2階の一番奥の窓の、風に揺れるカーテンの奥で輝く、眩しい海を家事の合間に横目で何度も確認する。そして、もう我慢ならないと思うお昼頃に、お風呂のボタンをぴっと押して、目の前の海で英と二人、波打際の英と海中の私で、幾度となくアイコンタクトしながら寒くなるまでしばし泳ぐ。帰ってお風呂に直行して、海の家みたいに汗をかいて空腹にシンプルな醤油ラーメンをすする。外には、室内が暗いと思うほどの眩しい晴天と海がそこにい続けている。

奄美の日々にあったもの。それは、人と天気に与えてもらう日々。野菜のおすそ分けは方々から届き、毎日誰かが「こんにちはー」と尋ねてくる。知らない人とも何者でもない、『ゲストハウスに居候している金髪の姉ちゃん』として初めましてから、込み入った話もする。お隣のおじちゃんとおばあちゃんはいつも私たちを気遣って、野菜だけじゃなくお花まで摘んできてくれたりする。そして、今日は「来るな」と思えば、好きな飲み物を持って夕日を見に行くために少しだけ車を走らせる。もずくが流れてきたという海に出向いたり、一年に一度しか見えない干潮時の絶景の浜を見に行ったり、「羽蟻が三回出たら梅雨が終わるんだよ」と言う嘘みたいな話を聞いて、本当にそれを体験して驚いたりする。

奄美の日々にあったもの。それは、娘を見つめる日々。今日も楽しかったねぇと娘に話しかけて眠る。朝起きて、やらなきゃいけないことはなくて、朝日と一緒に一度目を覚まして、朝日を確認してベランダに出て、お湯を飲みながらまだ夜の寒さが残る、夏の直前の美しい空に目を見張る。肌寒くなって、娘が起きないうちにベットに戻って、ひっくり返った寝相の娘を・すーすーと息をする頬と胸を、しばらく見つめる。「早く起こさなきゃ」も、「寝ているうちにこれを...」もない、悠長な朝の時間のなかで、その無防備な足に顔をすり寄せて、その愛おしい塊を抱き寄せて、また少し私もその眠りに誘われること許す。

  * * *

奄美の日々にあったことは、言葉にしてみればそんなこと。派手でも凄くもない、やるべきことのない暮らしだけがただ存在している日々。

やるべきことが何もなく、本当の意味で未来が存在しない現在(いま)しかない時間を過ごした、2ヶ月半の平坦で平穏な日々。この暮らしは、想像も出来ないような暮らしで決してなかったと今でも思う。けれど、雑誌とか誰かの投稿で「知っている」とは到底違うものを、この体験は私の人生に刻んでくれていた。

私はこの暮らしのど真ん中で、世界に転がる「知っている」の無力さを知った。いろんなことを知ろうとした起業から今日までの日々の中にあって、知っていることと知らないことには実はそんなに差なんてないのかもしれない、と思う。それほど、「知っている」というとそれは既に自分ものみたいだけど、知っているだけではまだまだ自分の外側にしか何かはなくて、飛び込んで初めてそれらはやっと、私の内側の何かになるのだということを痛感させられた奄美での日々であった。

私たちは、「何を知らないか」すら知らないで、さも人生は、「これが当たり前だ」と思い込んで、目の前の世界を盲信して歩んでいく。「知っている」というの言葉の向こう側に存在する、生の世界を知らずに。知らないから、心乱されることも、切望することも、目指すこともせずに。できずに。

でも、飛び込んでみてやはり、知ることがどれだけ、自分の唯一無二の人生にとっては、なんと薄っぺらいことだろうと改めて思う。これからも私は、無数の情報が飛び交う毎日の中で、本当にこれだと思うものに対してだけは、「知っている」の向こう側に飛び込み続けられる自分でいたいものだ、と思う。「知るだけなんて、生の驚きのない人生なんて」と、私は本当にそう思う。いつだって、知らない世界は冒険と挑戦に満ちていて、心底私を驚かせてくれるから。

写真で見る、奄美の日々


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?