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山川咲の作り方を、7つ。

コロナが勢いを増し、想像もし得ない未来にたどり着いてしまった私たち。最初は本当に勘弁して欲しいと思っていたところから、ここまでの猛威を振るうコロナに日々、いろんなことを考えさせられる。結局コロナという機会に背中を押されて、やりたいなと思っていた未来を生きてしまっている今でもある。独立もして会社にも属していない私は、遠くからこの事態を見ていて、本当にアニメのような世界だと思う。天気の子よりももっと、壮絶なくらいだ。現実味ももう消え去りそうな、こんな時代の切れ目に私は、何もしないで過ごしたからっぽな時間を過ごした挙句に、ふと「山川咲は、どうやって作られたのか」を考えてみたくなった。せっかく、36歳でまた大きな決断をしたのだから。そして、子供を必死に育てているのだから。子育ての先に自分がなぜ、こんな人間になったのかを紐解く旅に出てみたくなったのだ。


1, 会話や視点から高まる感受性

うちの母親は、私に似て(正確には私が母に似ているのだけど)とても繊細で、世界と複雑に向き合って、多くを感じて、その葛藤の中に生きている人間だと思う。だから、とても感受性が強い。普通の家族というものはないけど、でもお友達の家族とは違う独特な世界の切り取り方を、私は母からの手紙に、選ぶ言葉に、食事やシーンの選択に、見出す。人生や人間への考察、何気ない日々の風景の表現、大きな儚さや切なさ。大きなものの中で、自分の無力さを受け止め、でも諦めずに生きているような人。完璧主義が過ぎて、自分を追い込みすぎるところも、酷似している。その人と2人、同じ長女として、自分が育った大変な幼少期を、共に戦い抜いたような感覚。母は幼い私の、全てだった。

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2, 普通を嫌う、前提のない概念

何度「普通の暮らしがしたい」と親に切実に訴えただろうか。彼らは子供に対して、自分のセンスを合わせるという事を持ち合わせていなかったので、「普通なんてつまらない。あれはダサい。」と一刀両断されて、私は常識とかではなく、そういう生きるセンスみたいなものを教えてもらってきた。もともと茶色い地髪を染めているのでは、と指導に来た先生に媚びることもなく、怒って追い返していたシーンも印象的で、今の私にもできないと思う。こう生きなさい、ではなく普通なんてつまらないよ。を、突き付けられて、自分の信じるものに生きる親の人生を追体験して生きてきた。私は普通を求めながらも、ずっと普通について、自由について、自分について、考えさせられていた

3, 独自の体験主義

山川家は旅好きだ。小学生をピークに、高知にうどんをめぐるフェリーと車の旅、友達のライブペインティングを見に九州へ、誕生日に昔住んでいた北海道をめぐる旅、野外フェスに頻繁な美術館。今思い出してもユニークないろんなイベントにもたくさん行った。パッケージが今よりもずっと濃かった時代に、なんとオリジナリティの高い旅をしているのだろうと思い出しても驚いてしまう。うちでも、きりたんぽを作ってみたり、餃子は皮から作って、薪で料理をしたり、毎日工夫に飛んだ暮らしをしていたことを、そんな私の非日常な当たり前の世界を思い出す。何もない森の中で、工夫して生きることで、私たちは毎日を生きていた。

4, 行き交う人の多様性

うちに来たことがあるゲストは、インディアンにダライ・ラマの後継に、アーティストに、無数のクリエイター、旅人に、寿司や陶芸の職人など、交友関係が謎に多様だった。うちの庭にはインディアンテントが立ててあって、それがゲストの宿泊場所だったし、20年前に今のサウナーも真っ青なサウナテントを自作で立てたこともあった。全国に知り合いがいて、旅に行けばいつも、謎が謎を呼ぶ人たちのうちを尋ねることも多かった。芸能人、菜食主義、スピリチュアル、極度の自然派...私はただただその多様な人たちとの交流に怯えていた。私がなりたい普通から、自分がかけ離れてしまうことを恐れていた。

5, 自由の中のセルフマネジメント

3歳で行った保育園は肌が合わなかった。辞めたいと言ったら自分で連絡するならいいよ、と言われて電話をかけて退園した。学校に入ると勉強なんてしなくていい。というよりも、「もはや勉強しすぎ」と注意を受けて、でも勉強しないと前述した、親が選んだ風変わりな暮らしの一途をたどってしまう危機感があり、勉強し続けた青い時代。TVも自分で部屋から撤去してもらった。幼少期は私はフィギア選手になりたくて体操を習い、妹はお寺で絵を、山奥で英語を習った。私が毎日、送り迎えが必要な遠くの高校に行きたいと言っても、妹が学校行きたくないから芸能人になりたいと言ってもOKをだし、押し付けがましくなく、それを尊重してくれていたことを今になって感じる。そして、誰かのために生きている人はいなく、関係はいつでもフェアだった。そのフェアさ、距離感、自立感が愛されていることをなんだかいつも疑う要因でもあったと皮肉にも思う。

6, フリーランスの仕事観

終身雇用真っ只中において、大手のフジテレビをもう少し勤めたら年金がもらえる手前で会社を辞めた父。あの時代でこの意思決定はなかなかである。「こんな忙しい都会にいたらおかしくなる」、そんな直感に従って、ワゴンで1年にもわたる日本一周の後、ログハウス職人として手伝いをしていた千葉の山奥に惚れ込み、移り住んだあと、父はフリーでアナウンサーをしていた。東京まで三時間かけてたまに通う。その当時はまだTVのCM等のオファーもあり、TVから父の声を聞くこともしばしばあった。驚くことに1本100万円を超える仕事もあり、毎日家にいて月に一度しか東京に行かないのに、まとめてお金を稼ぐそのプロのフリースタイルを私は、幼心にちゃんと心に焼き付けていたと思う。「山川咲の名前で仕事をする」、そんな風に実家の家の床にマジックで書いたのは小学生の頃だった。

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7, 見ている世界

家に帰るといつも、会話は地球の環境問題のこと、世界の戦争の悲惨さ、電磁波や原発の恐怖など、難しい話が多かった。TVのどうでもいい話題はその時から時間の無駄と選別されていたし、今でも囲まれていた本たちの題名と装丁は、思いの外良く覚えている。「自分がどこに生きているのか」、を認識するのは親が見ている世界に他ならない。今目の前の世界という、地元のコミュニティのことで忙しかった私でも、その先にもっと大きな世界があるのだということを、きっと感じていたと思う。小さい頃は、そんな世界とか地球とか大きな概念が嫌いだった。その世界や環境問題から端を発した親の考えが、私にこの生活を強いていると思うと、私の中に対抗心が生まれてきた。慣れない土地で、薪でお風呂を焚きながら、この父親を突き動かしてしまうその、大きな世界とやらを憎んでいた。

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こうやって、無数のものたちに形成されて私は私になっていく。でも、そこに親の世界観が強く影響していることは言わずもがな、もはやほとんど全てだと思う。私は創業して、今の自分になったと思っていた。でも、22歳で働きだした瞬間に人事だった私と出会ってくれた元学生たちと最近話し、私が私になったのはもっとずっと前だったのだと気づく。もうあの時はすでに私だったのだと。そう考えると、私のルーツというのは、やはり親でしかないとも言えるなぁと回り回って思うのだ。親によって、すべてが決まってしまう訳ではないが、親によって与えられる環境と機会と価値観は、間違いなく絶大だ

そして、その親に影響を受けていたあの田舎での生活と、それを覆う大自然と、その先のまだ見ぬ大きな世界のなかで生きていたあの時から、20年、30年の時が過ぎて、あの時は嫌だったそれらも体に染み付いたように思う。地球のことを他人のように思えなくなった。私も自然の中で生きることの意味を幾度となく自分に説いている。でも、私は父を見ていた。この行動経済成長の社会からドロップアウトして、「こうするべきだ」と叫ぶ父親がひどく無力に思えた幼い時代。私は、父とは違う形で、この地球や世界に対して何かをしないといけないと、大人になるにつれて思うようになった。だからビジネスの世界に入った。早々に田舎を出て、東京という街に根をおろした。そして、私は、年を重ねて、世界を恨んでいたところから一変して、私はこんなちっぽけな自分で世界を自ら背負ってしまった。そして気づき始めている。父が・母が、できなかったことを私がするのではなく、あの時見ていた「世界を良くしたい」という同じ純粋な目で、この清濁合わせたこの世界に向き合おうとしているのだ、と。否定した世界のために、否定した父と母と一緒に。

そして、なんということだろう。そして私のバトンをまた、娘に受け継いでいくのかもしれない、と初めて思うのだ。自分だけで、と頑なに生きてきたこんな私が。苦しかった、幼少期。親のせいで、と何度この環境から逃げ出したいと自分の運命を恨んだあの長い長い時を超えて。

最後に。

自分の人生を通して、結婚式を通して、私は人より真剣に親子というものを見てきた。どんな親でも子供に影響を与えている。そして、経営者でも、お酒飲みでも、普通でも、どんな親でも、ほとんど全ての子供は一度は親を拒絶し、大人になる。私も例外なく、親の勝手な価値観や考え方、選んだ生き方・選択に苦労してきた。でも、その単純な怒りや反発を超えて自分に残るものに、こうやって36歳で、そして人生を賭けて、人は気づいていく。私が最も感謝していることは、否定し続けた私の原点に、「子供のために」ではなく、人生を賭けて親が信じたい世界があったことだ。いつか娘も、自分の信じる道を生きた先に、こんなことにぽっかり出会えることを願って。

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