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目指し、焦がれ、否定した、東京という街

家賃が馬鹿高くて狭い、世界有数の忙しい都市、TOKYO。

美味しいご飯と、忙しさの合間の癒しと、多様に選べる趣味と、都会での最善の育児と…そのために私たちは、自分の当初の見立てよりも多くのものを失って、それでもなお東京にこだわり続けていたのではないか、とこの節目にやっぱり思わずにはいられない。目指す世界のために必死に働く私たちは、その過酷さに、道の途中で手に入れられる幸せの要素をいくつも積み重ねて毎日を生きている。

お金で買える幸せは多様で、常に上には上がある。そんな無限の幸せを手にいれながら過ごす日々は、いとも自然に私たちを追い込んで、「何のために生きるのか」とか「何が幸せなのか」という感覚をゆっくり麻痺させていくような気がしていた。東京で少し値の張る、美味しいお寿司を食べていたときに、このお金で買える連続した便利と幸福の先に、何があるだろうとはっきりと思ったのは、2020年の冬の終わりを感じられる頃。曖昧な違和感は確信に変わっていた。今の途切れることのない幸福な生活を見直さなければならないと、私は思った。

東京での暮らしや、ビジネスの世界からドロップアウトした父親もこんな気持ちだったのかなと思いながら、大きなトランクと基本的な調味料と手に入りづらい安全な食料品が入ったダンボールを持って、この土地に来た。大きい「捨てる」決断をすっぱりできることは、自分でも好きなところだ。知らない土地で、自分でご飯を作って、食べて、2人には到底広い家を、毎日どこかしら掃除して洗濯して、買い出しして、散歩して、夜になるとお風呂に入って、大きな波と風の音に少しビクビクしながら眠る...というこの暮らしは、とても人間として私に必要なものであるし、もともと東京を離れて全く違う生活がしたいと年初に思っていたその感覚と遠くない暮らしに、私は直感的に辿り着いている、と思う。

東京に暮らし続けることへの疑問と違和感。そして子供のときに私が自然の中で育った記憶がどこまでも私を形成しているという確信。そして、時代の流れ。色んなことが相まって、私をこんなに遠い場所まで連れてしまったのだ、と思う。私の日常の全てが詰まった東京から離れて早くも、もう1ヶ月が経とうとしていた。私が東京を離れて二週間で、緊急事態宣言が出たことも、すごく遠くで聞いたような気がした。

私はこの、こみ上げる違和感に答えを出したかった。東京ではないどこか別の土地で暮らして、「東京での暮らし」を至極真っ当に滑稽に思いたかった、のだと思う。「やっぱり東京ではなかったんだ」、というすっきりしたい気持ちに。そして、今こんな素晴らしい自然あふれるこの土地で、いとも簡単に辿り着いてしまうのではないかと思ったそれに辿り着くことは、結論からいうと今のところ、なかった。

目の前の大自然は、私に深呼吸をさせてくれる。知り合いもちらほらできて、色んな縁が回り回って、最初に泊まっていたホステルが、コロナの影響で休業するというので、そこを貸切にしてもらって、私はそこに暮らしている。海の目の前で、毎日5時半過ぎに自然と目が覚めて見つめる窓の外の朝日に、または曇りや雨の合間に海に差す光に、木々が風で揺れて深くきらめく生きる森に、「あぁ生きててよかった」と祈るような静かな気持ちが、こみ上げてくる。人間として、今の自分はすごく満ちていると思う。これを求めていたし、これがある種の正解だと、間違いなく思う。それなのに。ううん、それでも、だろうか。なんだか無性に恋しいのだ。あの、東京という町が。

あぁ、東京という街を愛して、その街に受け入れられて、ある種ゆるされて、私は20代を生き抜いてきたのだ。自分の道を歩ませてもらってきたのだ、と知る。幾日も連続して、共に最前線で戦った仲間が、リスペクトする人たちの姿が、真っ暗にした夜の部屋で脳裏に浮かぶ。オンライン飲みも楽しいだろうけど、思い出すのは楽しい何かの会ではなく、熱のある会話、不意に歩く肌寒い夜の街、共に東京で戦う仲間たち、誰かとの手が届いて触れられる距離感と手の感触。熱気や興奮、哀愁や共鳴。そんなものがぎゅっと詰まった街が、私の愛する東京だったのだと知る。

そして東京には、遠いけどその先には無謀じゃない範囲に「世界」があった。生活のためとか、市場は、とかよりも、自分が求める理想を追い求めた時に、未来と時代が付いてきてくれる感覚。人生をかけるべきものに邁進して、世界を動かすことに向かって、夢中で戦えた場所が、私にとっての東京だったのだ、ということに東京から遠い大自然の中で、ふとたどり着く。

それなのに気がつけば、東京は帰るに帰れない場所になっていた。距離だけではなく時空みたいなものも含めて、東京は遥か遠い。この1ヶ月のほうが非現実なのに、私の36年間の現実はこんなファンタジーのような、大きな渦にいとも簡単に飲み込まれてしまったようだ。私が当たり前に住んで暮らしていた、私が元いた東京の日常は、幻みたいに消えた。東京という街も、誰かと過ごした何でもない夜も、あんな風に無我夢中で何かに賭けた若かりし日々も。すっと、音もなく。そして、完璧に戻ってくることは、もう永遠にない。そんな事実が、なんだか私をどこかうろたえさせる。

その小さな混乱の中で、東京という町に、私は過ぎ去った当たり前の、でも大切だったこれまでの全てを投影しているのだろう。東京という街、駆け抜けた日々、大切な人たち、その人に触れた指先の感覚...その時の私から見たら、取るに足りないものたちに、無視できない「愛おしさ」がこみ上げるこの数日。

否定しようとしていた東京を、そこに生まれるひとまとまりの人やものや出来事を、私はひどく愛していた。そんなこの言葉にできない感覚を忘れたくないと思う。その何かに触れたくて、不安で寂しくてSNSを見ても、そこにはその感覚に近しくて、でもとても遠いものしかないような気もしてくる。だから、ただその不安にも似たそれを紛らわすことなく、1人で静かに抱きしめる。それが私が選んだ、今という時代(トキ)との向き合い方だと思うから。

なんとなく今の東京の家は、1年以内にきっと引き払うだろう。でも、私はきっと東京を捨てるのではなく、東京に詰まった今までの過去を超えて、また愛おしいこれまでとは違う未来を、始めるのだと思う。いや、そう思いたい。

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