帝都の鶴を書いたときのこと
あとがきに入り切らなかったことなど。
「帝都の鶴」は「日常のなかにある希望」を書こうと思っていた物語。
あとがきで、鶴は変わりゆく世界の中の「新旧の狭間」にいるキャラクター、と書きましたが、世界が変わってゆくなかで間違いのない希望を見出せるとしたら、自分(そのひと)が世界を見るまなざしのなかにあるかな、と思っていました。
世界を変えないといけない、というと、その巨大で、実体のないものを思ってどうしても閉塞感を持ってしまうところ、「自分の世界を見る目が変われば」なら、いくらでも希望があるように思えたのです。
そのために「帝都の鶴」は、あくまで日常の、身近な、手を伸ばせば触れられる範囲の話にしないといけない、というのが、web版を書いたときから、自分に対する約束事でした。
非日常の大きな何かが外的に起こったら、もう「世界は変わらないけど自分が変われば」という話ではなくなりますからね。
自分が世界を見る目が変わって、行動が変わることで、自分にとっての希望が見えてくる、と、それはとても幸せなことだなと思います。
もちろん、世界(や色んな仕組み)が変わってくれないとどうにもならないこと、はたくさんありますし、それらも、自分の行動がよい変化に繋がることを信じて、考えたり、何かをしたり、しないといけないものではありますが、それはそれ。
でも、幸せに気づきましょう、という教訓的なことではなく、身の回りの世界が、幸せなものであったらいいなあ、という願いです。
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