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九年後、サヤカ……。


 小高い丘の中腹にある小さな駅舎。近くにお嬢様学校と言われる学園があり、朝晩のホームはそこの女子生徒達で溢れかえる。
 もうあれから九年の年月が経つ。生徒の顔ぶれは変わっているはずだが、漂う匂いや空気はあの頃のままだ。
 当時高校三年生だった生徒が、この駅のホームから走って来た急行列車に飛び込み、命を落としている。一応、自殺ということで落着しているが、真相は未だ謎に包まれている。
 鈴木園子。あれ以来、その名前を何度も胸中で呼びかけてみた。その度に、不可解なる苦しみを覚えて胸が苦しくなる。
 私立白樺女子学園、この学園の卒業生でもあり現在は国語教師として勤務する丘 絵里おかえりは園子と同学年、しかも共に演劇部に所属した仲であった。
 仲というにはあまりにもぞんざいな括りだ。実際、園子は演劇部のなかでも孤立した存在であった。孤高の天才美少女、その名を冠するばかりに、それは近寄り難い立場を彼女に与えた。
 当時の演劇部は現在、理事長代理として学園の職務にあたる源財華子げんざいかこが部長をしており、その華子を派閥の長にし、殆どの部員がその側に追従していた。唯一園子だけが異分子であり異能なる存在であった。
 園子そのものは何事にも控え目で、我を押し通すことなど何一つなかった訳だが、演劇を催すに当たってこの天才美少女に役を与えない、または助演に配置させるなどということは、ありえない選択だった。
 全生徒、観衆は鈴木園子の舞台を観るために集い、最終学年に入ったこの年には誰もが園子の演技を待ち侘びていた。
 だからこそ、部長である華子は主役の座を園子に与え、孤立しているとは言うものの副部長の立場を彼女に与えていた。
 シナリオは園子自身が作成していた。その方面においても稀有な才能を持っていたのだ。
 表立っては派閥に属さない園子に対して陰湿な態度を取る者は流石に居なかったものの、細かい部分、例えばシナリオの書き直しや変更依頼、または小道具や衣装についての変更など、些細なことを度々注文しては、もはや、副部長というより雑用係として、使い走りのような扱いを繰り返していた。それらに対して園子は文句ひとつ言う訳でもなく、その役割を全うしていた。
 そう、あの日も、園子はシナリオの細かい書き直しをしていて、ひとり夜遅く帰ることになってしまったのだ。
 あの悲劇は誰のせいでもない。
 絵里はこれまで何度も自分にそう言い聞かせて来た。
 だが、果たして、それで済ませてしまっていていいのだろうか? 
 園子が亡くなったその場、駅のホームの端に立ち、絵里は九年前のあの日に想いを馳せる。どれだけ月日が経とうが、記憶が色褪せることはない。まるで昨日のような出来事。あれ以来、園子の実態は無い。
 しかし、今もどこかで園子が自分を見詰めているような、そんな気がしてならない。絵里は背筋に冷たいものを感じて、妙な胸騒ぎに意識が絡めとられて仕方なかった。
 それと言うのも、今年があの時の状況とよく似ていた。例年には無い何かしら異様なムードを醸し出しているのだ。
 それは園子の生き写しとでも言うべき存在、鈴木沙耶香のせいだ。
 二年前の春、初めて沙耶香を見た時の絵里の驚き。言うまでもない、園子が生まれ変わってこの学園に戻って来たとしか思えなかった。
 それからの月日、沙耶香は学園の中で、園子と同じ道のりを辿った。
 演劇部に入るや否やその存在感、演技力はレベル違いであり、見た目の華やかさは他を圧倒していた。一年の時こそ裏方として動いたが、二年の頃にはもう沙耶香を舞台に出さなければ他の生徒達が騒動を起こしかねない気配さえ感じた。何故ならすでに下級生達の間には沙耶香のファンクラブらしきものが出来つつあったからだ。それで実際に去年の舞台では沙耶香がほぼメインのステージを務め、舞台は成功し、沙耶香の人気は不動のものとなった。
 それでいて、沙耶香自身は舞台を降りるとそのオーラを消し、静かで大人しい少女へと変貌する。外部の騒動を知ってか知らずか、淡々とつつましやかな佇まいに身を包んでしまう。
 そんなことをぼんやり考えているうちに周囲はいつのまにか夕闇に包まれ薄暗くなった。満月より少し欠けた月が青白く夜空に見えた。夏の終わりの生暖かい風が絵里の全身にまとわりついた。白いブラウスが夕闇の中に揺らめいていた。
 駅のホーム、もうすぐ急行列車が通過するので、なるべく際から遠ざかる、足元には生垣のこんもりとした草木がまとわりついている。
 その時突然、立っている絵里の両足首を誰かに強く掴まれる感触があった。ひっと声にならない悲鳴をあげた。気付けば身体が上手く動かない。
 と、突然、背中を何者かにドンと突き押される衝撃を受けて絵里はその場に投げ倒される。短い悲鳴をあげ、その場に倒れたが、後ろに下がっていたおかげでホームから転落することは免れた。
 その目の前を轟音と共に列車が走り抜けて行った。間一髪、危機は回避された。あと一歩前に立っていたなら、間違いなく、絵里の身体は列車に巻き込まれ、粉々に吹っ飛ばされていたに違いない。
 地面に倒れた状態で絵里は生垣の方向を目にした。何者かに掴まれていた足首は解放され、細く白い腕のようなものがするすると草木の中に消えて行く。
 その光景にゾッとしながらも、思わず、絵里は口にした。
 そ、園子なの?
 恐怖で震えながら、絵里はそう呟いた。

 この春より新任で白樺女子学園に生物教師として採用された星井翔子ほしいしょうこは、かつてこの学園に在籍した卒業生である。
 在校中に『ミステリー研究部』を立ち上げ、動植物の生態について詳しく調査し、論文を書き上げたりした。
 学園の裏に広がる果てしない森林、それらが翔子のフィールドワークとなっている。
 在校中はこの森に足を踏み入れることは禁じられていた。今でも生徒達は危険区域として、その森に立ち入ることは出来ない。しかし、生物教師としての翔子は研究のためという名目でその禁は解かれている。ただし、事故を起こしたり、問題があったりした場合は自己責任によるものとし、学園は責任を取らないと明言している。
 それは当然、翔子も納得していることであった。
 かつて在校中、またはミステリー研究部を継いだ妹の真実まみから得た情報により、この森に棲むシマフクロウの生態記録を数年に渡りデータ収集している。
 それによると年に三、四度は目撃されていた大鳥もこの二年ほど目撃情報が途切れている。
 それを最後に目にしたのは妹と同じミス研に所属していた伊達だてマキであった。そのマキもすでに学園を卒業してしまっている。つまり在校生で森を飛翔するシマフクロウの姿を目撃した者はいないのだ。
 一般的にシマフクロウの寿命は二十年から三十年と言われている。最初にその姿を目撃し、映像に捉えたのは翔子自身である。あれは六年ほど前のことになる。その時すでに成長していたその鳥のはっきりとした年齢は分からないが、見た目から推測するとかなりの老鳥であったと思われる。
 もはや死に絶えてしまったか、あるいはこの森のどこかでまだ生きながらえているのか、それは分からない。
 翔子は根気よく森の中を歩き回り、何かしらの形跡を見つけようとしていた。
 そんなある日、木の枝に引っかかりぼろぼろに破れた布切れを目にした。雨風に晒され相当な年月が経っていることは窺えるが、自然のものではない。人の手により置かれたものであろう。元の色さえはっきりしないがおそらく白布、そうシーツか何かのような、そんなものだと伺える。ふと周囲に目を凝らしてみる。この辺りは初めて踏み込む箇所だと思った。少し小高い丘になっているのか眺望が開ける。そしておよそ四百メートルか五百メートルかその先に白い建物を目にして翔子はハッとする。
 あれは……、おそらく、理事長宅、そうだあの白い出っ張った部分は二階のバルコニーのあたりだ。
 翔子はその風景と布切れが木に引っかかった部分をカメラに収め、布切れの一部を切り取って、肩から斜めに襷掛けした鞄にしまい込んだ。

 その日の夕方、源財華子は自室に戻ると部屋着に着替えてひと息吐いた。理事長代理とは言え、必ずしも閑職ではない。年度が切り替わるごとに理事会や評議委員会などで決算報告が行われ、それと共に新年度予算案が決議される。その度に着手するべき新しい案件がいくつか増える。経営上の資金繰りを考えた上で、決断を下さねばならないことも多い。それと同時に学園としての生徒の確保、質の向上、社会的なイメージの維持・確立。かつて何かの会合で同業者が今や学校経営はサービス業と同類だとの意見を語っていた。確かにそれは一理ある。少子化が進む昨今、学校の経営はある種のカド期を迎えている。生き残りをかけて事業継承を受け持つ身だ。
 無論、それら全てを華子が一人で背負い込むことはないが、責任者という立場の重さは常に感じてしまう。校長として父のすすむがいるし、本当の理事長は現在休職中の祖母・芳子よしこである。
 母の未来みくは家庭の主婦として、家事に従事する。祖母の面倒を見るのも実子である母の仕事だ。
 華子を理事長代理に任命したのは祖母芳子だった。芳子は昔から華子を可愛がっていて、あらゆる面でその才能を高く評価していた。
 このまま行けば将来の正式な理事長に華子、校長には華子の夫となる人物を予定している旨を芳子が語るのを以前聞いたことがある。
 だから代理と言っても華子にとってはすでに自分は理事長職にあると思わなければならない、そう決めていた。
 ドアにノックの音が聞こえた。「はい」と返事をする。
 ドアの向こうにいたのは祖母であった。薄い部屋着の上に黒いマントを羽織っている。学園の卒業生なら皆持っているものだ。
「理事長、具合はいかがですか?」
思わずそんな言葉遣いをしてしまう。
「華子、家にいる時はそんな呼び方をしなくていいと言ってるじゃない。それに敬語もおよし」
 華子は苦笑いを浮かべる。
「わかったわ。芳子ママ。珍しいわね。何かご用?」
 源財家ではそれぞれ名前で呼び合う習慣になっている。芳子はお婆さまと言われるのをひどく嫌がる。昔からの呼び名は芳子ママだ。ちなみに母のことはそのままママと呼ぶ。ママもまた学園の卒業生である。
 芳子はドアを後ろ手に締め、和かに部屋の中に踏み入った。
 芳子は開け放されたフランス窓からバルコニー越しに黄昏れる森に目をやる。
「いえね、このところ姿を見せないのよ」
 華子はほんの少し首を傾げて尋ねる。
「誰が?」
「ラファエルよ」
「ああ」
 華子もふいと森を見つめてため息を吐く。「そうね、私も見ないわ」
「以前はね、指笛を鳴らせば必ずここへ飛んで来たものよ。それがねあたしの病気のせいで、最近上手く鳴らせなくなってしまったの。だから今ラファエルがどんな状態でいるのか、判らなくて少し心配してるの」
 それは知らなかった。祖母は指笛を鳴らしてラファエルを呼び寄せていたのか。
 華子もラファエルとは幼い頃から慣れ親しんでいる。でも呼び寄せる方法は知らない。このバルコニーの石造りの柵上に止まった時にだけ、ささやかな触れ合いをして来た。ラファエルは華子の肩や腕の上に気軽に飛び乗っては暫く羽を休めると、また森の中へと帰って行く。
 そのラファエルも今はかなりの老鳥だ。いつ寿命を迎えても不思議ではない。ペットにしている訳ではないので、その生息状況については調べる術がない。
「芳子ママ、もう指笛を鳴らすことは出来そうにないの?」
「そんなことはないでしょうよ。心配いらない、状態は少しずつ良くなって来ているから。でもそうね、今はまだ無理だけど、近いうちにまた鳴らせるようになると思うわ」
「そう、良かった」
 華子はそう言ったものの、いつかの絵里の言葉を思い出す。

 「まさか、まさかだけど、華子、貴女、ここからラファエルに命じて、園子の背中を……」

 その言葉が今でも脳裏に木霊する。
 妙な胸騒ぎを覚え、華子は芳子の顔を仰ぎ見る。深い皺の顔にラファエルの姿が重なり合って見えて、一瞬たじろいだ。芳子は怪訝な顔を見せて何か華子に問い掛けようとしたのだが、結局何も言わずに、
「夕食の支度が出来ているそうよ。早く降りてらっしゃい」と、それだけ伝えて部屋を出て行った。


 演劇部では、秋の定期公演に向けて稽古もいよいよ最終局面を迎えていた。来週にはゲネプロを行う予定になっている。
 演目はオリジナル脚本で『伝説の王ヴァイスの復活』という、中世ヨーロッパを舞台に繰り広げられる騎士達の物語だ。王国の復活を目指すヒーローとしてヴァイスは悪と闘い、ラストは奪い返した城の上に立ち、高く掲げた剣を敵の魔王に撃ち下ろすといった内容。もちろん主演のヴァイスを沙耶香が演じる。
 彼女の騎士姿(王でもある)はまるで宝塚の男役トップスターのようで、練習段階からすでに下級生達から悲鳴のような黄色い声援を浴びていた。
「これは凄いことになりそうね」
 演劇部員達は誰しもそんな言葉を口にして、早くも今年の公演が演目通りに伝説になるであろうことを予想していた。
 ただひとり、演劇部部長の川井茜かわいあかねだけは一抹の不安を抱えていた。通し稽古を無事終えたあと、茜は沙耶香を別室に呼び出し、二人きりで話をした。
 だが、茜は思ってることをどうやって伝えればいいのか、言葉に迷っていた。
「もし、私の演技に改善点があるのなら、遠慮なく言って」
 沙耶香は相手が同級生だという気やすさもあって、気軽な話し方をした。
「いえ、そうじゃないのよ。沙耶香、あなたの演技は完璧よ。全く文句の付けようもない。素晴らしいの一言に過ぎるわ。ただ……」
「ただ、なあに?」
 茜は少し首を傾げたりしながら、どう言葉を紡ぎ出せばいいのか、数分の間、躊躇いを見せて、ようやくひとつ言葉を選んだ。
「いえね、あなたの演技を見てると、なんて言うか、怖くなる時がたまにあるのよ」
「怖い?」
 意外な言葉に沙耶香は瞠目する。
「うん、怖いって言ったら、変だけど、そうね、どう言えばいいかしら、あなたがあまりにも役に入り込んでいるものだから、まるで、あなたの身体に別の何かが憑依している感じ? あ、ごめんね、こんなこと言って、全然悪くないのよ。役になり切るのは大切なことなのだから、でもね、沙耶香の場合、そのまま元に戻らずに、どこか遠くへ行ってしまいそうな、たまにふと、そんな気になるのよ」
 沙耶香は困惑したように、黙って茜を見つめた。
「本当にごめんね、変なこと言って、あたしはただ、このまま今の状態で本番をやり遂げて、また普通の高校生に戻って一緒に卒業出来ればいいなと思ってるだけなの。でも、何だか、毎日、妙な胸騒ぎを覚えて……」
「胸騒ぎ?」
「ええ、あの劇の最後、ラストシーンのところ、敵の魔王を撃ち下して、塔の上からあなたも気を失って落ちるじゃない、」
「そうね、そうなるお芝居だから」
 茜は、その時、ふっと沙耶香を見て、「本当にお芝居?」と、思わず訊ねていた。
「え、どういうこと?」
 茜はあきらかに動揺しているような素振りを見せた。
「いえ、本当にあなたがそのまま……、ああ、やっぱりごめん、こんなこと言う方が変だよね。あたしどうかしている。忘れて、今の話」
 茜は、それまでのやり取りをなくしてしまおうとスカートを手で払って、立ち上がりその場の空気を変えようとした。
「じゃ、帰ろうか」そして明るく笑顔を見せて、茜は言った。
 けれど、沙耶香はじっと身動ぎもせず、空中の一点を見詰めていた。そして、何かの打ち明け話をする時みたいに、こう続けた。
「茜がさっき言った、憑依っていう言葉なんだけど……」
「え? 何?」
「九年前に私、車の事故に遭って生死の淵を彷徨ったことがあるの。その時……」


 絵里は新任の生物教師・星井翔子とミステリー研究部の部室で向かい合っていた。
 翔子の妹・真実が卒業した後、部員がゼロになってしまい、現在は活動休止中になっている。
 それでも翔子が学園に着任するや、ミス研を復活させようと顧問になり、部員を集めようと画策している。だが、実態は翔子のお眼鏡に叶う生徒が見つからず、同時にミステリーに興味を示す生徒もおらず、依然として部活動は行われていない。
 だが、翔子は別である。翔子は鈴木沙耶香が在校している間に九年前に起こった鈴木園子の事件(事故)の真実を突き止めたいとそれだけを願っていた。
 ミステリー好き、もしくはオンナの勘として、翔子は鈴木沙耶香と鈴木園子の類似性、そこに何かしらの因果関係があるのではないかと感じていた。長年にわたって調査して来た園子事件の真相もほどなく究明されるのではないか、そんな期待に胸を膨らませていた。
 そこへ話したいことがあると翔子を訪ねて来たのが絵里であった。
「丘先生、もったいぶらないでそろそろ話してくださいよ」
 絵里は先日あった駅のホームでの体験、何者かに足首を掴まれ金縛りのような状態になり、その直後何か獣のようなものに背中を押され倒れた。そして生垣にスルスルと消えて行く白くて細い腕を確かに見たこと、それをミス研の翔子に話してみようと思い立ってこの部室を訪ねたのだ。
 けれど、なかなかこんな奇妙な話をどう話していいものやら、戸惑っていたのだ。
 だが、翔子の巧みな誘導もあり、その時の一件を絵里はポツリポツリと話して聞かせた。
「なるほど、よく分かりました」
「驚かないのね」
 話を聞いても平然としている翔子に絵里は問い掛けた。
「だって、あたしも経験者ですから」
「えっ? ほんとなの?」
「そうです。六年前に」
 絵里は絶句した。
「あんな体験、私だけかと思ってたけど、そうじゃないのね」
「ええ、だけど、先生の記憶、少し正確に補足させて頂きますね」
「補足? どこか違ってた?」
「はい、違ってたら、違うと言ってくださいね。まず、金縛りは足首を掴まれる前に起こっていたはずです」
「えっ? そうだったかしら、よくわからないわ」
「それから、少し風が吹いて空には月が出ていた」
 翔子の言葉に絵里はその時のことを思い浮かべてみる。
「ええ、確かに生暖かい風が吹いてたし、そうそう確かに満月より少し欠けた丸い月が出ていたわ」
「やっぱりね。それで、その日は金曜日だった」
「あ、そうよ。金曜日のことよ。でも、どうして?」
「理由はあたしにもよくわかりません。でもあたしの場合もそうだったし、それに数件、前にも同じことが起こっていて、そのどれもがそういう状況のもとであったことなんです」
「数件……、全然知らなかった」
「年に二回ほどですから、でも調べた結果、どれも同じ状況で起こってるんです。先生、鈴木園子さんが亡くなられたのは金曜日だったのじゃありませんか?」
 絵里はハッとした。記憶を巡らせてみる。あれは、確か……、休日前の……、そうか、そうよ。
「金曜日だわ!」
「やっぱり」
「でも、どうして? そんなことが……」
「理由についてはともかく、ただ、園子さんの事故死の後、事故は発生していません」
「事故にはならなかったってこと?」
「そうです。何故ならみんな足首を掴まれていたからなんです」
 あっ、絵里は思わず、口を開いた。
「おそらく、園子さんは足首を掴まれなかったんだと思います。掴まれなかったというより、掴む人……、いや、霊魂とでも言うべきか」
「え、つまり、それは?」
「多分ですけど、足首を掴んでいるのは、園子さんの霊魂。それから、これはあたしの推測ですが、背中を押しているのは、森に棲むシマフクロウの仕業じゃないかと・・・」
「まさか!」
 絵里の脳裏にいつか理事長宅で、華子に問い詰めてみたことが甦る。
 ラファエル、そんな名前だった。誰かがシマフクロウを手懐けて、園子を襲わせたのじゃないかと、でも、それは華子も否定したし、それ以降、絵里はその件は考えないようにしていた。
「でも、先生、少なくともここ二年間はそういう出来事はなかったんです。先生が遭われたのは、おそらく三年振りのことで」
「そうなの?」
「ええ、それで、先生、実はあたしからのお願いですけど、あたしと一緒に鈴木沙耶香さんに会ってお話してみませんか?」
「鈴木沙耶香さんと? あの子はまるで園子に生き写しだけれど、何かこの件と関係あると思っているわけ?」
「それが、分からないんです。昨日、演劇部の部長をしている川井さんと話をしたんです。彼女、沙耶香さんのことをとても心配そうな顔をして見てたから。そしたら何か沙耶香さんから聞いた話があるって言ってて……」
 翔子は確信めいたものを何も持ってはいなかった。だけど、藁にもすがる思いで、彼女に当たってみたかった。鈴木園子とそこまでの類似性があるのはやはり不思議に思う。それに、何か手掛かりになるような事柄を彼女が握っている、そんな気がしてならなかったのだ。


 源財芳子は娘の華子が学園に出掛けるのを見届けるとバルコニーに出て森の奥深くを見詰めた。
 今日は朝から体調も良い。このところ随分と体力も以前と同じくらい取り戻して来た気がする。朝の空気が美味しい。深呼吸をしてみる。
 そんな風に森を眺めていて、突然にふと思いついて指笛を吹いてみようかと思いついた。
 小さい頃から慣れ親しんだものだ。やり方はよく覚えている。
 芳子は唇を内側に窄め、舌の先を上に向ける。それから右手の親指と中指で丸い形を作り、上下の唇でそれを挟み込む。そして息を強く吹く。ちょっとしたコツが必要だ。
 最初は上手く鳴らせなかった。だが、何度か試みるうちに感覚を取り戻し、小さな音が聞こえ始めた。数回それを繰り返すとちゃんとした指笛の音が鳴り始めた。一度だけと思い、大きく息を吸い込み強く吹いてみた。だが、それは思ったより小さいものであった。まるで違う場所で鳴っているみたいな……。けれど、細く鋭く、風に乗って森の奥へと伝わって行った。
 暫くすると森の奥深く、遠くの方から小さな黒い点が一直線にこちらに向かって来るのが見えた。その物体は木々の上や隙間を軽やかに飛来する。それが段々と近付くに連れて輪郭が顕になる。色目も黒から茶褐色に姿を変え、大きく羽を広げているのが確認できた。鋭い瞳、尖った嘴、大きく広げた翼、そして木の枝を連想させる両の脚、鉤形に尖った爪、その爪先を開いて、バルコニーの石の柵の上に舞い降りてとまった。ラファエルだ。
 芳子はにっこりして腕を差し出し、ラファエルを自らの腕の上に乗せて、優しく頭を撫でた。まるで懐かしい友に再会した時のように、あるいは離れて暮らす家族を迎え入れ互いの愛情を確認する時のように。


 自宅を出て小径を下り、学園に向かいかけていた華子は校舎の玄関に入る直前、樹木が軋む時に似た悲鳴のような高い音を聴いた気がした。反射的に背後の森を振り仰いでみたものの、ここからは近くの木々に遮られて、森の姿や自宅のバルコニーさえ見渡せない。
 何かその超音波にも似た響きは風の音なのか、鳥の鳴き声なのか、あるいは人工的な何かなのか、咄嗟に判断しようがなかった。けれど、胸中に不吉な想いがまるで黒雲のように広がるのを感じて、思わず身震いした。ふと芳子のことを心配したが、母が常に寄り添ってくれているから大丈夫だろうと自らを納得させた。でも……。
 その時、玄関の向こうに絵里の姿を見かけて、ほっとして華子は校舎に駆け込んだ。
「どうしたの? そんなに慌てて」絵里が華子の様子を見て気遣う。
「いえ、ごめん、何でもないの」と微笑んでみるが、表情は何となく強張ったまま。外の気配が気になる。
「そう、ならいいけど、あのね華子、今日の夕方って少し時間取れる?」
「え? ああ、別に予定は何も入ってないけど、何かあるの?」
「ええ、実は、星井先生と私で鈴木沙耶香さんと話をするのだけど、もし、都合が良ければ、華子も同席しないかな、と思って」
「鈴木沙耶香さん……、えっと、それは何の話をするのかな?」
「星井先生が言うには、沙耶香さんは園子と何か繋がりが絶対あるはずだって言い張るのよ」
「園子と? 繋がりって何だろ? 顔が似てるってだけで、そんなこと決められないじゃない」
「そうなの、でも星井先生って在学中からミステリー研究部で園子の事件について調べてたでしょう。何かそう思わせる手掛かりかあるらしくて、それで詳しく沙耶香さんに尋ねてみたいって言うの。それに園子のことをよく知ってる私にも立ち会ってほしいって言われて」
「そうなの、星井先生の言い出しそうなことね。それで場所はどこで?」
「どこかの教室か、ミス研の部室とか、って聞いたけど、ちゃんと確定したら、また知らせるわ」
「そう、それなら……、理事長室を使えば? 今日は来客の予定も何もないから」
「え、いいの?」
「もちろんよ」
「じゃ、星井先生に伝えておくわ」
「ええ、そうして、じゃ、また」
 そんなやり取りをしている間に華子は先程聴いた超音波めいた不審な音のことは忘れてしまった。

 放課後、鈴木沙耶香は部活に断りを入れてから理事長室へと向かった。今年から生物教師として学園に着任した星井翔子先生からお願いされたことだ。何か聞かせてほしい話があると。
 沙耶香たち三年生のクラスは星井教諭担当の教科がないので、直接な関わりは何もないのだが、妹の真実さんとは顔見知りであった。
 沙耶香より二学年上の星井真実は当時、ミステリー研究部に所属していて、七年前(当時)に起こった生徒の自殺の真相を調べていたようだった。何でも自殺したその生徒が沙耶香によく似ていて、同じ鈴木姓なので親戚関係に当たらないかとの問い合わせだった。確か、あの時は直接、沙耶香の家に来てもらって何か話をした記憶がある。そもそもミステリー研究部は姉の翔子先生が創立させた部らしいので、今度もその件なのかなと推測した。
 けれど、沙耶香の鈴木家と自殺した鈴木さんの家系とは何の繋がりもなく、その時にそう決着したはずなのだが、今度は何を訊ねられるのか、沙耶香には見当が付かなかった。
 長い廊下を通って理事長室のドアをノックする。直ぐに中から、返事が聞こえた。
「ごめんなさいね。部活で忙しいところ、なるべく早く終わらせるから、さあ、こちらに座って」星井翔子先生がドアを開けてにこやかに迎え入れた。
 丘絵里先生と源財華子理事長、いや、理事長代理が二人揃ってソファから立ち上がって沙耶香に近寄って微笑を見せた。
「失礼します」
 沙耶香はほんの少し会釈をしながらおずおずと躊躇いながら室内に入る。奥に大きな理事長用のデスク。その前に向かい合った革のソファと木製のテーブル、壁にはいろいろな賞状や絵画、その奥に白樺女子学園の校旗が掲げられている。広過ぎることはなく、だが狭くもない、全体を白樺のイメージカラーで統一されて落ち着いた印象がある。それでいてどこか格調高く威厳に満ちた雰囲気を漂わせている。
「演劇のお稽古、順調に進んでるらしいわね。楽しみにしているわ」
「ありがとうございます」
 理事長代理と話をするのはこれが初めてだった。
「さあ、どうぞ、こちらへ」とソファへと促される。
 一礼してソファに浅く腰掛けた沙耶香であったが、何だか落ち着かない。対面に座った三人の顔からは視線を外して、膝の上に両手を置いたまま、静かに部屋の様子を眺めた。
 三人は軽く目で合図し、翔子が口火を切った。
「ごめんね、突然に呼び出しちゃって、なるべく手短に話すわね。実は演劇部部長の川井さんと、この間少しお話ししたのね。その時に聞いたのだけど、沙耶香さん、あなた九年前に自動車事故に遭ったそうね」
 えっ、沙耶香は突然、意外な話を切り出されて戸惑いを浮かべた。
「あっ、川井さんは悪くないのよ。誤解しないでね。私が勝手に訊き出したの。あの子あなたのことをとても心配してたから」
「はあ……」
 でもそれが何か関係あるのだろうか?
 沙耶香が戸惑っていると、今度は絵里が言葉を繋いだ。
「あなたも知ってると思うけど、九年前、私の同級生だった鈴木園子という子が駅で急行列車にはねられて亡くなったのよ。一応自殺ってことになってるんだけど、夏の終わり、八月二十九日の金曜日なの」
 一瞬、沙耶香はハッとして目を見開いた。
「そう、当時小学三年生だったあなたが事故に遭ったのと同じ日よ」と翔子が手帳を確認しながらそう告げる。
 沙耶香はそれを聞いてますます驚きの表情を作ったが、
「それと私の事故が、何か関係あるのでしょうか?」と、尋ねた。
「いいえ、事故については私も少し調べたんだけど、全く関連性はないから心配しないで、でもその時、あなたは一時いっとき生死の淵を彷徨ったって、それは本当なの?」
「ええ、はい、確かにその日というか夜ですけど、病院に運ばれて次の日の朝まで意識不明でした」
「沙耶香さん、その病院はどこか、分かる?」と今度は源財華子理事長代理が問い掛けた。
「え、はい、K大病院です」
 沙耶香はこの地域で一番大きな総合病院の名を口にした。
 絵里と華子は互いに顔を見合わせた。
「実は、園子もその夜、運ばれたのがそのK大病院だったの。偶然にもあなたと同じ日、同じ時間帯に」
 なんとなく部屋の空気が微妙に変化したように感じて、沙耶香は黙って俯いた。
「これも川井さんから聞いたのだけど、沙耶香さんあなた、その時、意識不明中に誰かが自分の身体に乗り移るような感覚をを感じたらしいわね。あ、これも私が無理やり川井さんから訊き出したことなので、彼女を悪く思わないでね」と翔子。
 妙な間合いが空いた。もしかしたら触れてはいけない部分に触れようとしているのではないか、絵里は目の前で言葉に詰まり、困惑の表情を浮かべる沙耶香を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。華子は泰然と身じろぎもせずにじっと成り行きを見守っている。
 話題が話題だけに、もうこれ以上は……、と言いかけようかと思ったその時。
「私たちは知りたいのよ。その夜、何があったか、いえ、あなたが意識不明だった時に何を感じていたのか」
 翔子は決然と身体を前に乗り出し、そう沙耶香に尋ねた。

九年前、サヤカ……。

 あの時の記憶は今でもはっきりと覚えている。
 でも人に話をするのは初めて、いえ、その頃、大人の人に話したけれど、誰も本気で受け取ってはくれなかった。話も上手く出来なかったし、相手にはまるで伝わらない。いつも、あら、そうなのって、子供の創り話を聞いた時のように軽くいなされた。
 だからそれ以来、その時の話はしなくなった。友達に話して嘘つき呼ばわりされるのもいやだったし。
 当時、小学三年生だった。近くのお友達の家でみんなと一緒に遊んでいて、気がついたらもうすっかり外は夕暮れに包まれていた。あまりにも夢中でテレビゲームに嵌まり込んでしまっていて時間が経つのを忘れていたのだ。
 慌ててお友達の家を出て、自宅まで走って帰ろうとした。横断歩道の信号機は青だったはずなのに、そう、確かに青だった。だから、悪いのは向こう。突然横から大きなトラックがやって来て、あっという間の出来事だった。
 全身に痺れるような感覚が突き抜けて、一瞬、宙を飛んだ。その瞬間に世界が反転した。アスファルトの冷たい道路に投げ出され、いつも見慣れているはずの道路や街の風景が違う角度から見えて、それまでの記憶は全部途切れた。

 その次、目を覚ましたのは翌日の朝、病院、ベッドの上だった。
 だけど、意識不明で生死の淵を彷徨っていたと言われたその時間に、感じていたものがある。
 どこかでゴーッという音が鳴っていて、私はひとつの細胞か粒子だった。そこにひとつの流れがあった。自分の手も足もどこにあるのかわからない。目が見えているわけでもない、それはただ脳裏に浮かんだ光景、その流れに呑み込まれて行く。
 それが何の流れなのかは分からない。血管の中をいろんな細胞が流れて行くような、そんな感じ。世の中にはいろいろな流れがある。水の流れ、風の流れ、星の流れ、そして、人の流れや時の流れなど、その流れに疑問を持つことはない。その流れに沿って人は生きている。身を任せているだけ、逆らうことは出来ないし、そんなこと考えもしない。流れのままに進むだけ、それがまるで自分の運命みたいに。そう、人は水族館や映像でみる魚の一群れと同じ、空を飛ぶ鳥の一団と同じ、人もすべて生物の集合体の中にある一欠片に過ぎない。ひとつひとつは別個だと思っていても大きな視点で見たとき、一つの塊を構成している粒子であり、細胞である。
 だけどその時、違う角度から、別の強い力が加わった。それが何だか解らない。例えて言うなら、強い磁力に引っ張られるように別のところに引き戻された。そんな感じ。
 まるで雑踏の中で突然、腕を掴まれて引き戻されるみたいに。
 その瞬間、自分の中に何かが入り込んで来た。細胞の内側にまるで吸収されるような動きでそれは忍び込んだ。自分とよく似た別の粒子。何かは解らないがそんな気がした。
 病院のベッドで目覚めた時、以前の自分とはどこか、何かしら違う感覚を持った。
 ここから先は、先日演劇部の川井茜に打ち明けた話と同じ。九年前、交通事故に遭って生死の淵を彷徨っていた。その間に誰か別の人間の魂のようなものが、自分の中に入り込んだ。憑依するって言葉で言い表すのなら、その時、別の誰かが私に憑依した気がする。でも完全に乗り移った訳じゃない、自分の中にもう一人の知らない誰かがいるみたいな。そしてそれから、流れに引き寄せられるような人生を歩んでいる、そんな気がしてた。何故、この学園を選び、演劇部に入ったのか、それも解らない。けれど、何かに導かれるみたいに、自然とこうなった。
 だから、演劇をしている時の私は、誰かに憑依された別の人格が演じているみたいな気がする。脚本だって、私が書いたことになってるけど、正確には私の中の誰かが私に書かせたような気がする、と。

 沙耶香の話を聞いた華子と絵里は唖然とした。この話にどんな感想を述べようか、子どもだった沙耶香にあら、そうなのと応えた大人たちと少しも変わらない。でも自分たちは園子の件がある。単純には他人事や夢想話のようには感じられない。どう受け止めたらいいのやら、戸惑いを覚える。
 翔子だけが、沙耶香の話に愕然としていた。手に持った手帳の頁を探り、目的の箇所を見つけると、はっと息を呑んだ。それはある程度の予想をしていた。でも、本人の話を聞くまでは確信が持てなかった。
 だから沙耶香の話を聞いて、あやふやだった点と点が線で繋がった気がした。
「あの、いいですか? ここにあたしが調べた記録があるのです。実は沙耶香さんが交通事故に遭われた時間と鈴木園子さんが亡くなられた時間は、ほぼ同日の同時刻です。病院にも確認しました。間違いありません」
 翔子以外の三人は夢でも見たような顔をしている。
「星井先生、園子が当時小学生だった沙耶香さんの生命を救ったとでも言うつもり?」
 華子の追求に翔子は言い淀む。
「つまり、沙耶香さんに入り込んだ何かというのも、あなたはそれが園子だと思いたいの?」
 翔子は大きく目を見開いて、それから決然として、
「そう思います。思うとしか言えませんが……」
 絵里も問いかける。
「じゃ、駅のホームで私やあなたの足首を掴んだ、あの白い腕は……」
 この話は華子と沙耶香は知らなかった。二人ともえっという顔をした。
「おそらく、園子さんに違いありません」
 理事長室は深い沈黙に包まれた。
「まさか、そんなことが! そんな霊的な超自然現象な話を信じられると思う?」
 再び、沈黙。
 それを打ち破ったのは沙耶香だった。
「実は、私もそんな気がしています」
「え? だってあなたは園子と会ったことも無いはず」
「ええ、そうですけど、私が書いた今年行う演劇の脚本、九年前に園子さんが書いたシナリオとそっくりなんです」
 華子と絵里が思わず顔を見合わせる。
「そんな……」と、両の手に慄えが走る。
 翔子だけが、落ち着いた様子で、
「沙耶香さんは今年の脚本を書く以前に園子さんのシナリオを読んではいないのね」と、訊ねた。
「ええ、もちろんです。読んだのはつい最近です。演劇部の部室には過去のシナリオ冊子がたくさん置いてありますから。鈴木園子さんの書いたシナリオは結局上演はされなかったのですけど、その中から見つけました。つい最近のことです。その内容が私の書いた脚本とよく似ていて、とても、不思議なことなのですが、その時、ああ、この人なんだなと思いました。死に至る流れの中から私を引き戻し、私の中に入り込んだのはこの人に違いない、そう思いました。でないと、物事の辻褄が合わない、そんな気がして」
「そうよね」
 翔子は合点がいったように手帳をパタリと閉じた。
 華子と絵里は半ば口を開いた状態で、目もうつろに脱力していた。
 そんな風にして沙耶香との会話は終了した。
 一礼して理事長室を出て行く鈴木沙耶香の姿は見れば見るほど、鈴木園子に酷似していて、華子と絵里は挨拶もそこそこに、再び奥深い思考の淵に立たざるを得なかった。


 沙耶香と話した日から数日が経った。絵里は再び、理事長室を訪ねた。ドアをノックして返事を聞き部屋に入ると、華子は受話器を置くところだった。
「あ、ごめん、何か取り込み中だった?」
「うん、いいの、今日必要な書類を部屋に置き忘れていて、母に届けてもらうように頼んだだけなの」
「ああ、そうなの。じゃあ少しだけ、今いいかしら」
「ええ、どうぞ、お茶でもしましょう」
 二人はティータイムをすることにした。
 他愛ない雑談を少々交わしたあと、話は自然と沙耶香の告白した話に矛先が向いた。
「だからと言って、事件の真相が解明出来た訳ではないのよね」
 華子の言葉に絵里は頷く。
「たとえ、沙耶香さんのお話が事実だったとしても、それは彼女の脳内で起こった出来事であって、第三者から見れば、だからどうなの? ってことにしかならない」
「それは、そうよね」
 絵里はあれから何度も沙耶香の話を胸の内で反芻した。でもその度に確信の度合いは半信半疑の域を出ない。
 けれど、と絵里は思う。このまま本当に何も起こらずに沙耶香の高校生活が終わってしまうのだろうか?
 再来週には演劇部の演劇が上演される。演目は確か『伝説の王ヴァイスの復活』というタイトルだった。
 調べたところヴァイスというのはドイツ語で白もしくは青白い色のことを示すらしい。
 白、白、そこから何か思い付くものはないか? 絵里は頭を巡らせた。だけど、それだけでは何も思い付かない。
「ねえ、華子、こんなことお願いするのって、すごく変だし、嫌だと思うのだけど、もし、よければ今週の金曜日、駅のホームにあなた立ってみない?」
「えっ? あたしが? 何故、どうして?」
「いえ、やっぱり、あなたを危険な目に遭わせる訳にはいかないわね。忘れて、今の話」
 絵里は目を伏せる。
「私にもあなたや星井先生と同じ体験をしてみろと言う訳ね」
「ごめん、そんなこと言うなんて、本当にどうかしていたわ」
「仮に、あたしがその時刻にホームに立っていたら、どうなると思うの?」
「さあ、それは分からない。多分、何も起こらないと思うわ」
 華子はしばらく沈黙した後、
「もし、背中を押すのがラファエルの仕業だとしたら、そこにいるのがあたしだった時、どうするか? それに園子の霊魂だと思われている白い手があたしの足首を掴むかどうか、それを確かめたいのね」と言った。
 絵里は深くため息を吐いた。
「確かに正直に言えば、それはあるわ。でもそれって、すごく危険なことだから、本当にやめてね。もう私ったらバカ、バカだわ。こんなこと言い出すなんて、絶対しないでね。今の話、全部忘れて、お願い」
 それきり二人は黙り込んだ。理事長室内には何かしら重い空気が充満し、二人は息苦しさを感じてしまった。

 その頃、翔子は森の中にいた。以前見つけたぼろ布が引っかかっていた場所へ再び来てみたのだ。
 あれから持ち帰ったぼろ布の一部を洗ったり、成分を分析したりしてみた。その結果、これはやはり寝具に使うシーツの一部だと判明した。元は純白な汚れのない綺麗なシーツだったと思われる。
 おそらく何年も以前からこの木々の枝に広げて張り付けられていたのだろう。その布が張られた表側の面がどちらを向いているのか、それをもう一度確かめに来たのだ。布は半分枝に引っかかって垂れ下がっている。シーツの大きさを想像し、その辺りにあたる枝を詳細に見て回った。すると一つの枝の根元に紐状の名残りがあるのを発見した。その枝の繋ぎ目の両方に線を合わせて、そこに面があると思い浮かべてくるりと百八十度身体の向きを反転させる。
 思った通り、翔子の視線の先は理事長邸のバルコニーの方角を向いている。でも何故ここに白いシーツを? 
 しばらく思案した後、ふと思い立って翔子は肩から襷掛けした鞄の中から、学校周辺の地図をコピーしたものを出す。校舎と駅、それから理事長宅はすぐに見出せるが、この場所は森の中なので、等高線や翔子が手書きで控えて来た覚え書きの手書きの地図を照らし合わせて、大体の見当をつけた。そして、おそらくこの辺りで間違いないと思われる部分に赤ペンで丸を付ける。
 それを何度も見返し、地図を横にしたり、逆さまにしたりしてみる。
そこで、ふと気付く、理事長邸を頂点としてこの位置と駅のホームの端辺りを線で繋いでみると、綺麗な二等辺三角形が出来上がる。
 つまり、この位置は理事長邸のバルコニーから駅のホームまでと等距離に位置するということだ。ただ、ここからは見えないが、駅ははるか眼下に位置するはずだ。高低差はある。しかし、直線距離にすると等しくなる。
 それが何を意味するのか、翔子は暫し思考する。駅のホームの端と言えば、九年前に事故が起こった場所、六年前に翔子が足首を掴まれ倒れた場所、つい先日、丘先生もそこで倒された。
 その場所とここは同じ距離、そして、白いシーツ、白い、白い、白? 
 翔子はハッとする。制服の白! 
 白樺女子学園の夏物の制服は白いシャツだ。
 おそらく、このシーツをぼろぼろに引き裂いたのは、シマフクロウのラファエルだ。白く風にはためくものに飛び掛かる、それを訓練させるため、この場所にシーツを仕掛けた。そうとしか考えられない。
 それは誰が? 
 源財家の中の誰かとしか思われない。
 それは、理事長代理か、あるいは休職中の前理事長なのか? 
 何のために、こんなことを? 鈴木園子を狙った目的は何? それ以降も同じ条件が揃うとその行為を繰り返すのは、なぜ?
 翔子は突然、くらくらめまいを起こしそうになって、その場に蹲った。その時、どこからともなく、森の木々を切り裂くような悲鳴にも似た高い音が響き渡るのを聴いた。
 その音の出どころはどこからだろうと辺りの様子を伺っていると、突然、翔子の頭上をはるか樹木の先を掠めるように飛び去る一羽の鳥の姿を見た。真横に広げた羽根はかなりの長さ、茶褐色の胴体に樹木のような脚が二本。鉤形に尖った鋭い爪。真っ直ぐに理事長邸の方向へと飛翔して行く。シマフクロウだ。おそらくはあの時の。翔子は六年前のことを思い出し、身震いする。
 しゃがみ込んでいた翔子はそろそろと立ち上がって、鳥が飛んで行った先、そちらに目をやる。理事長邸のバルコニーの上に何やら人影のようなものが見える。小さくてよく分からないが、黒っぽいもので身体全体が覆われている。すかさず襷掛けの鞄から双眼鏡を取り出し、目に当てる。位置を探り焦点を合わせた。黒いマントのようなものを着た女性。誰だかは判らない。その肩にその鳥はとまっていた。
 突如、陽が翳って、もうそれは薄暗い影に覆われ何も見えなくなった。さわさわする風の音に包まれ、翔子は突然身の危険を感じて来た道を足早に引き返すことにした。

 その週、金曜日の夕方、駅のホームに一人の人影があった。白いロングカーディガンで身を包んだその女性は、ホームの端に佇んだ。空には満月に近い月、夏の名残りの生暖かい風に吹かれる。
 急行列車がこのホームを通り過ぎるまで、あと僅かだ。あたりに人影はない。その女性は身じろぎもせず、その瞬間を待った。微かに両手は慄えている。
 線路の遠くの方に小さな明かりが見えた。少しずつゴーッとした音が波のように近付いて来る。初めは小さなものだったそれは徐々に大きくなり、やがて辺りを轟かせ耳をつんざく悲鳴のような叫びになった。ホームが地響きし、駅舎が振動し、森の樹々が騒めき、風がまるで竜巻きのように舞った。とてつもない恐怖に駆られて女性は両手で頭を押さえて声にならない叫び声を挙げた。
 だが、次の瞬間、嘲笑うかのように、目の前を急行列車が走り抜けて行った。轟音と共にそれらは走り去った。危機は通り過ぎた。金縛りにも遭わなかった。足首を掴まれもしなかった。背中を押されもせず、何事も起こらなかった。それでも女性はその場に崩れ落ちた。そして、慄える声で小さく、「ごめんね、園子」と呟いた。
 その女性、源財華子がその場を後にしたのはそれから小一時間も経ってからのことだった。その目はしとどに濡れて、苦悶の表情を浮かべていた。


 いよいよ学園中の生徒たちか待ちに待っていた白樺女子学園演劇部の定期公演が開催される、その当日を迎えた。
『伝説の王ヴァイスの復活』と命題されたその作品が、主役を務める鈴木沙耶香のオリジナル作品であることにも多大なる期待が寄せられた。
 当日、開場前にも関わらず既に多くの生徒たちが群をなして駆けつけ、入口前にはすでに長蛇の列が作られていた。座席が全て自由席になっているからである。
 会場は学園が自慢するオペラ座を模した講堂が使われる。毎年そこにびっしりと満員の観客で客席は埋め尽くされる。
 金曜日の午後、開演は午後三時、終演は午後五時まで及ぶ長丁場だ。ただし途中で十五分程の休憩が入る。
 舞台裏では大道具、小道具、衣装、その他のスタッフたちが大忙しで走り回っている。毎回、開演前はこんな風に慌ただしく過ぎて行く。その中で控室にて出演者たちは自分の出番や台詞の再確認をしながら、ヘアメイクなどを入念に行なっていく。ここへ来て緊張感がぐっと昂まるのを誰もがひしひしと感じている。
 部長の川井茜は今回の舞台では出演者にならず、舞台袖で全体の進行係に徹する道を選んだ。それは他でもない今回主演を務める鈴木沙耶香の姿をひと時も離さずこの目で見守りたいと熱望したからだ。
 ゲネプロを見る限り、沙耶香の演技は完璧だ。非の打ち所がない。その点では安心している。それでも何故か落ち着かない気持ちに捉われ足元がソワソワする。何だか妙に落ち着かない。何が自分をそうさせるのか分からない。妙な胸騒ぎ、不安が幾重にも連なる波のように心の襞に打ち寄せる。茜は会場内の隅々まで目を光らせ、不審なものはないか、視線を走らせた。
 それに反して一番奥の控室に陣取った鈴木沙耶香は早くも王者ヴァイスの白い衣装に身を包み、泰然とした落ち着きを見せ、沙耶香を担当する下級生たちを一歩も近寄らせないほどのオーラを放っていた。まさに静謐なる女王の存在感に満ち溢れている。
 開場が始まった。入口ドア前にひしめき合っていた生徒たち観客が雪崩のように一斉に場内に押し寄せ、我れ先に前列の特等席を目指して瞳の色を変え走り込んで来る。その壮絶な争いはまさにそれ自体が劇的でもある。演劇は演じる者達だけで創り上げるものではない、観客がいてこそ成り立つ芸術なのである。今年は伝説の会になるであろうことは誰もが心に思い描いた事象であった。
 あっという間に会場内の客席が人々で埋め尽くされた。すでにその熱気がまだ降ろされたままの緞帳を赤く染める。開演前のざわざわした騒音、興奮を隠し切れない観客たちの口から溢れ出る声の波。それはまるで津波のように舞台裏まで伝わって来る。
 茜は事ここに至って覚悟を決める。もう今更ジタバタしたところで何がどうなる訳ではない。全て見守ろう。鈴木沙耶香をこの目に焼き付けよう、そう決意した。
 開演を知らせるブザーが場内に響き渡る。騒めいていた客席が居住まいを正すかのように鳴りを潜める。津波が小波に変わり凪へと変わる。その瞬間、厳かに緞帳が持ち上がる。演劇の幕が今開かれた。
 舞台上にいる役者の姿を見て取ると客席から静かな拍手が湧き起こる。
 舞台は中世ヨーロッパのどこかの国、街は以前栄えた名残りを残しながらも、廃墟にも似た退廃化がそこかしこに伺える。人々の暮らしは貧しく、慎ましく、それでも懸命に生きるための暮らしを営んでいる。
 舞台袖から登場した若い農夫の最初の台詞『皆の者、配給を運んで来たぞ、集まれよう』と声を挙げる。さて、そこから物語が始まる。
 この国は今、闇の帝王ブリーダに支配されている。元の王国ヴァイスは時の国王だったフリオ・F・ヴァイスがブリーダの手によって死滅した時に滅びた。それまでの平和な世界が一変し、今は過酷な労働と搾取で人々は飢え、貧困に喘いでいる。だが、そんな時、一人の傷を負った兵士が敵から逃げ延びてこの街に姿を現した。彼こそが亡き国王の血を受け継ぐ、王子クリスチャン・S・ヴァイスだったのだ。(沙耶香が扮した彼の登場時には、会場が漣のような拍手に騒めいた)
 クリストと名乗った王子は身分を隠して街の人々の助けとなり働き、時には我が物顔に暴力を振るう悪の下僕達とも闘い、撃退させる。そして、自衛軍を組織し、敵と戦うための戦力を作り上げる。そんな彼を見た一人の少女がこの方は王子様だと呼び、かつて王宮に仕えた過去があることを告げる。そして、国力が強まり、敵と相戦うとなった時、彼は人々の前にヴァイス国の象徴である白装束の騎士姿で現れ、自らの身分を明かし、闇の帝王ブリーダから王国ヴァイスを取り返すと宣言し、高々と剣を天空に突き上げるのだった。
 そこまでが一幕。ここで十五分の休憩となる。

 前半が順調に進んだことに川井茜はホッとする。沙耶香の演技も台詞の言い回しや声の張り具合も抜群に良い。観客は完全に魅了されている。沙耶香の魅力に酔わされているような状態だ。いつも通り、いや、それ以上に沙耶香は役にのめり込んでいる。すでに何者かに憑依されているみたいだ。一幕目が降ろされると顔色ひとつ変えずに平然と控室に戻る沙耶香に声掛ける勇気のある者は誰一人いなかった。
 会場に再びざわめきが戻った。その表情には悦びに満ち溢れて感激に浸っているように見えた。
 演劇は成功だ。これは伝説と云われる舞台になるに違いない。ここまでのところは。
 第二幕、後半の始まりだ。ラストに向けてすでに心がワクワクして来る。
 兵力を上げたヴァイス軍は弾圧されていた街を次々と解放して行く。時には苦戦をしいられ、惜しい人材を亡くしたりした。ヴァイスはその度に花を手向け涙を流すのだった。
 同時にヴァイスとかつて王宮に仕えていたという少女との間に恋が芽生える。少女の名はサラという。戦いを前にヴァイスとサラは恋の一夜を過ごす。しかし、敵の手はすぐそこに迫っている。
 舞台はいよいよクライマックスへと向かう。この国の首都だった都市・サザール。その都市を取り返した時こそ本当の復活だと言える。
 だが、そこに行くのにヴァイスはサラを街に残すことを決断する。そして精鋭なる騎士達と共に旅立って行くのだった。
 サザールでヴァイスを待ち構えるのは闇の帝王ブリーダ。その軍隊との激しい戦いは熾烈を極めた。同行した精鋭なる騎士達を次々と失い、心も身体もぼろぼろになったヴァイスであったが、とうとうブリーダとの一騎打ちの戦いに挑む。ヴァイス国の象徴でもある白装束の騎士衣装はかなり血に塗れていたが、雨風に打たれてもなお、その色を失うことが無かった。
 だが、その時、敵の捕虜となったサラがヴァイスの目の前に晒される。投降を余儀なくされたヴァイスは塔の上に縛り付けられ、ブリーダによって処刑されそうになる。

 客席では誰もが固唾を飲んで見守っていた。危機一髪の場面、多くの女子達が涙を流し、悲痛な叫び声を挙げる。どこかで悲鳴のような高い音が鳴り響いている気がした。

 その瞬間、雷鳴が轟き、ブリーダの剣に落雷する。感電してヴァイスの足元に倒れて痙攣するブリーダ。すかさずその剣を足で奪ったヴァイスはそれを手に掴み直し、身体を縛る綱を切り落とし、自由になった片手で剣を持ち、瀕死状態で足元に横たわるブリーダにとどめの一撃を撃ち下ろすべく、天上高く剣を振り上げた。そして『今こそ主君フリオ・F・ヴァイスの仇を討ち果たし、この王国を取り戻さん』と、決めの台詞を叫ぶ。

 これがラストシーンだ。最大の見せ場。川井茜は握り締めていた拳をさらにぐっと力一杯握り締める。
 その瞬間、会場後方にある二階の高い位置にある小窓がさっと開いたように見えた。突然、光が差し込み、えっ、と茜は目を上げる。そして、そこから何か物凄い勢いで飛び込んで来る物体があった。
 その物体は観客席の上空で大きく羽を広げて一直線にヴァイス、いや鈴木沙耶香へと突進した。
 物凄い悲鳴が会場に轟き響いた。
 羽を広げた物体は鳥だった。とても大きな。
 ヴァイス、鈴木沙耶香は剣を振り上げた片手をそのままに突進して来るその大鳥を待ち受け、直撃されると同時に思い切りそれを振り下ろした。
 ギャー、この世のものとは思えない大きな悲鳴。沙耶香の声とも思えない。獣のような声であり、人の声ではない。どこか遠くの方から響き渡る断末魔の声のようにも聴こえた。
 バサリと大きな轟きと共に空中いっぱいに鳥の羽が紙吹雪のように舞い上がった。
 舞台のフィナーレとしてはあまりにも劇的過ぎる。こんな演出は脚本にも書かれてはいなかったはず。
 茜は瞠目し大口を開けて事の成り行きを見守った。
 と、突然どさっと大きな音がして、塔のセットの上から沙耶香が舞台に落下した。
 咄嗟に駆け寄る茜、もう劇のことなど頭に無かった。沙耶香、沙耶香と大声で横たわり気絶している沙耶香を抱き起こし呼び掛ける。
 と、今度は客席の前列、端の方で女生徒たちの悲鳴と叫び声が聞こえる。見ると、床の上に片羽になった大鳥がカラダをバタつかせ暴れ狂っている。周囲の観客たちが一斉に立ち上がって逃げ出す。
 そこへ突然、黒いマントを翻して誰かが走り寄り、大鳥を抱き寄せた。しわがれた声で何事かを一心に口走っているが、意味をなす言葉が何も聞き取れない。
 もう一度沙耶香に目を移す。美しい。こんな時に言う言葉ではないが、この世のものとは思えぬほどの美しさに茜は打ち震えて沙耶香の名を呼び力一杯抱き締めた。
 理事長! 誰かの声がした。大鳥を抱えた黒いマントに駆け寄る者がいる。それが源財華子理事長代理であるとわかったのは、暫く経った後のことであった。
 理事長代理は大鳥を抱きかかえた黒いマントの人物を支えるようにして、唖然とする観客達の間を足早にすり抜け静々と去って行った。
 誰かが指図し、緞帳が下ろされた。
 もう演劇はこのままフェードアウトしてしまうようだ。
 それでも一応劇は完結している。ヴァイスが打ち下ろす剣が闇の帝王ブリーダから森の大鳥に変わってしまったが、あの羽が紙吹雪のように舞い散るフィナーレは壮観ではなかったか。
 後は沙耶香が早く目を覚ましてくれれば良い。保健室に勤務する教師に診てもらったところ、気絶しているだけで、外傷はないとのこと。多少の打ち身はあるが、大したことはない。そんな診察を受け、とりあえず、数人で沙耶香を担架に乗せて保健室の寝台へと運んだ。沙耶香の荷物は下級生が届けてくれた。
 それにしても、あのハプニングというべきか、大鳥の乱入には驚いた。
 何故あんなことが起こったのか茜にはまるで見当がつかなかった。それにあの黒いマント姿の人はいったいどこの誰だったのだろう。理事長代理が連れて行かれたが、何か関係ある人だったのか。でもそんなこと茜にはどうでもいいことで、今はただ、沙耶香のことだけ考えていたい。そんな思いで茜は沙耶香の手を握り締めていた。

 騒動を目撃した絵里は、あまりの出来事に驚愕し、暫く身動き出来なかったが、傷付いた大鳥(おそらくラファエルに違いない)を黒いマントの人物が抱きかかえ、華子がそれを支えるように連れ出して行くのを見て、思わず駆け出した。
 けれど、華子の名前を呼んで駆け寄ろうとする絵里に華子は「来ないで!」と叫んだ。
 黒いマントの人物の顔は見えなかったが、その様子から前理事長の源財芳子であると絵里は推測した。
 とにかく大混乱の中で演劇は終了した。
 度肝を抜かれて立ち尽くす観客の中を担架に乗せられた鈴木沙耶香が運ばれて行く。
 壮絶な幕切れだった。

 あの日から数日が経った。幸いにも鈴木沙耶香はあの後、直ぐに目覚めて何事も無く無事帰宅し、今は普通に登校している。
 丘絵里は星井翔子を伴って、源財家を訪れていた。大きなフランス窓の向こうにバルコニーがあり、その先に広大な森が見える。ここは華子の部屋である。
 ソファに腰掛けて向かい合う三人の前には美味しそうなモンブランのケーキとレモンティーが置かれている。華子の母がそれを運んで来た時モンブランに目がない翔子の目はきらりと光っていた。
「いただきます」三人は顔の前で手を合わせて舌鼓を打つ。
「あぁ、美味しいね」
 美味しいものを食べると自然と笑顔になる。
 だけど、今日はそんな楽しい話をするために来た訳ではない。
 もちろん、あの日の演劇部の公演で起こった出来事を解明するためである。
 でも暫くはこの味をゆっくり楽しみたい。レモンティーもいい味で爽やかな気分になる。
 はぁ・・・。
 ひと息ついた。
 ふと、何もかもこのまま、うやむやに済ませてしまいたいと願う。
 だけど、やっぱりそういう訳にはいかない。
「さて……」絵里が切り出す。
「結局、どういうことだったの?」
 華子は黙ったままだ。
「じゃ、せめてあの黒いマントは誰だったの? フードをおろして下を向いてたから、顔が見えなかったわ」
「見なくても分かるでしょ」
「なら、やっぱり前理事長先生?」
 華子は答えない。
「でも、何故、理事長先生がラファエルを飼い慣らして園子や沙耶香さんを攻撃させたの?」
「えっ? ラファエル? そんな名前なんですか? あのシマフクロウ」
 まん丸い目をして翔子が訊いた。
「あら、あなた、知らなかった。あ、そう言えば他の人の前では名前を言わなかったわね」
「理由は……」華子が口を開いた。
「全部、あたしのせいなのよ」
「華子のせい?」
「九年前、園子に主役の座を奪われて、それを一番悔しがってたのはあたしなの。それをノートにいっぱい書いてて、中には園子なんかいなくなればいい、なんてそんなことも書いてしまってて、それをあたしがいない間に見られてたみたい」
「まさか、そんなことで、それで、ラファエルを?」
「……、そういうことになるわね。でも信じて、そんなに大袈裟なことになるとは思ってなかったみたい。ちょっと脅かすつもりが、とんでもないことになって」
「でも、どうやって?」
「ここから駅と同じくらい離れたあの辺り」と翔子が窓の外を指差す。
「何? 森の方?」
「ええ、あの辺りに白いシーツを張って、そこに最初は餌が何かをぶら下げてたんでしょうね。ここからラファエル? を飛ばせて訓練させてた」
「えっ? そうなの?」
 これは華子も知らないことだったらしい。
「そう、呼び寄せる時は指笛を吹くのよね。こうやって、やって見せましょうか?」と翔子は指笛を吹く真似をする。
「やめてよ。それにもうラファエルは飛べなくなって、この家の裏庭で飼ってるそうよ。ね、華子」
「ええ、まあね」
「あー、そうなんですね。そうか飛べなきゃ森の中で生きていけないですからね」
「園子のあとの数件に関してはどうなの? 私も星井先生も一度同じ目に遭ってるわ。それに沙耶香さんも」
「すべては条件反射なのよ。夕方、月明かり、風に靡く白い布、それらがラファエルを呼び寄せるみたい」
「そうか、でも、それもみんなこれでおしまいね」
「でも、罪は罪だわ。償わないと」
 華子の言葉に、どう答えていいものか絵里は黙った。
 果たしてこれが罪になるのか、それさえも絵里には解らなかった。罪を償うと言っても理事長先生はもうかなりのお年だし、病気療養中でもある。ラファエルの世話も娘に任せきりだという。
「その件は華子にお任せするわ。園子は一応自殺ということで肩がついてるんだし、九年前のことだし、その後の事なら全部事故にさえなっていない」
「園子のおかけでね」
「う〜ん、そこは人の理解を超えてるわね。でも、私から人に話すこともしないし、追及することもしないわ。もうこの件は終わり。星井先生も出来ればそうしてあげて欲しいけど」
「はい、同感です」
 華子は黙って俯いて頭を下げた。

「それじゃ、また学校でね」
「モンブラン、美味しかったです」
 絵里と翔子は華子の家を出て、帰ることにした。最後まで理事長先生には会えなかったけど、それも仕方ないかと諦めた。
 絵里と翔子は森の中の小径を並んで歩いた。坂道を下る途中で突然翔子は何かを思い出したみたいに、
「あの、わたし、ちょっと調べ物があるので、森の中を見てきます」と言って、脇道へと行こうとした。
「え、こんなタイミングで? またミス研の調べ物?」
「いえ、生物教科の資料集めです」
「あら、そう、じゃ仕方ないわね。気を付けてね」
「はい、今日はお声掛けて頂いてありがとうございました」
「いいわよ。そんなこと。今回はあなたにもかなりお世話になったんだから、こちらこそだわ」
 二人は和かに手を振ってそこで別れた。

 ドアのチャイムが鳴った。源財華子はインターフォンのボタンを押した。あら、さっき帰ったはずの星井翔子がまた戻って来たらしい。
「なあに、何か忘れ物?」
 華子はドアを開けた。翔子はペコリと頭を下げた。
「あのぉ、本当にこのままで良いのでしょうか?」
「えっ、何が?」
 翔子は辺りを見回して小声で囁いた。
「ラファエルを飼い慣らして動かしていたのを、理事長先生がしたことにしたままで」
 華子は息を呑んで黙った。改めて翔子を見る。
「あなた、見てたの?」と訊く。
「はい、確か劇の演出でカミナリが鳴って敵の剣に落雷する直前でした。指笛の音を聴きました」
 一瞬の間。
「それで、直ぐわたし、表に出てみたんです。そしたら二階の窓のところに黒いマントの方がいらして」
「そう、それで?」
「あの方、理事長代理のお母さまですね。今日、先ほどモンブランを持って来てくださった……」
 華子はため息を漏らし脱力した。


「母を責めないで」
 ここは再び華子の部屋の前にあるバルコニーである。
「祖母はもう指笛を吹く力は無かったの。園子の時からそうよ。すべては母がやったこと。あたしのノートを見てしまったのは、母なの。
 沙耶香さんの場合は彼女を園子だと思い込んだらしくて。あたしが忘れた書類を届けに来た時に、その姿を見たらしいの。園子が生き返ったとでも思い込んだのでしょうね。すべては狂った母の……」
 華子は俯いて嗚咽した。

 開け放されたフランス窓の向こうから森の風が吹き渡って来た。こうして眺めていると、すべてが夢の中の出来事だったようにも思えて来る。
 翔子は静かな口調で華子に尋ねる。
「それで、今、お母さまは?」
「いつもと変わらず。何とも思ってないわ。ずっと祖母の世話をするだけで、あの人の世界はこの家の中にあることだけがすべてなの」

翔子は深く深呼吸をしてみた。体内の血液が新しく生まれ変わって循環して行くのを感じる。
「そうでしたか」

「それで、どうするつもり?」
「何も」
 さっぱりしたような顔をして翔子は首を横に振った。
「何も?」
「ええ、わたしは真実さえ解れば、それで良いんです。では、これで失礼します。お母さまにはモンブラン、美味しかったですとお伝えください。ではまた」
 そう言って星井翔子は帰って行った。
 まるで口笛でも吹きそうな足取りで。
 森の中へと消えて行った。



 おわり

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