昔のほうが面白かった、は思い出補正等ではなく事実でしか無い件について

今回の記事は前回の記事の精神的続編であり、私がNOTEで何故記事を書き続けているかの核となる内容である。
元々この記事を書くために私はNOTEで色々と書いていたのだが、結果ははたして。
まあ、当初よりは明らかに、確実性を持って言える事だけは確かなのだが。


その前にどうして私がライブドアやFC2等ではなくNOTEという、私のようなダンゴムシに合わないサイトを使っているかという話に移る。
まあ正直な所FC2等で書きたいのはやまやまなのだがいつサ終するか分からないので、最もサ終しづらいであろうNOTEに投稿している訳である。
以前、と言ってもかなり昔に使っていたヤフブロとブロマガはサ終してしまっており最早ブログ自体が過去のものになっているのは改めて言う必要もないのだが、最早今の時代においてネットに上がったものが一生残る、というのは間違いではないものの事実ではないというのは既に周知の事実だろう。
いつか消えるわけで、事実私が以前作成していたものは消えた。
本当に消えるわけがないならサルベージされてもおかしくない訳だが、現実そうではない。
結局、今の時代いつか消えるという事実に直面しながら、どうすれば長く保存出来るかという食べ物の保存の歴史と同じような事を辿っている。
それに対して私が出した答えは、私の記事(食べ物)を保存するために最新式の冷蔵庫(NOTE)を使う、という結論に達した。
まぁ、陽の光が強いところほど影も強いわけで、一種の共存関係とも言えるかもしれない。
最早ネットにおいて昔のようなオタクの居場所はないから、陽の光が強い所を転々として、ダンゴムシのように生きるしか無いのである。


さて、本題に戻るとして昔のものが面白いというのはインターネットが普及して依頼、幾度となく交わされている討論であると言えるかもしれない。
昔のジャンプが面白くて今のジャンプがつまらない、というのはたいてい主観的内容になってしまうので今回は割愛する。そもそもの話今と昔では方針も違うから、一概に語るのは難しい。
では今回の記事のテーマは何かというと、同一性を持ったタイトルの懐古VS最新論争である。
例えば有名なものだとポケモンだろう。ポケモンは新作が出たりするたびにこんなのポケモンじゃないだとか延々と繰り返されているし、ドラえもんは最近は落ち着いたものの一昔前は大山ドラとわさドラ論争が活発化していた。
後は東方とか型月とか…まぁ、結局全部ひっくるめて長く続いているものになるわけだが。
私の意見を率直に述べるならば、これは事実である。2X歳の私は思い出補正などは無いが、昔のほうが面白く感じている。
懐古趣味と言われたらそれまでだが…別に好きで懐古趣味をやっている訳では無い。
プリティーシリーズなんかが顕著だが、正直プリティーリズムに近づけば近づくほど内容がしっかりしていて面白いわけで、結局ブームの根本に近づけば近づくほど面白さは深くなっていくのである。

結局、世の中どうしてこういう事が起きるかというと初代(便宜上今回はそうさせて頂く)が全盛期で人気になるのにはそれ相応の理由があるのであって、本当にそれだけだったら妖怪みたいになる訳である。
今回は主にアニメ方面から執筆するが、ゲームはまたややこしい話になる。
私の記事でゲームを取り扱わないのも面倒くさいからなのだが、今回大まかに何故かも執筆しておく。
アニメは今昔、古臭い表現に目を瞑れば楽しめるもののゲームはそうではなくてFC~Switchまでを分かりやすく総括すると3つの分類に分けられるからだ。
A FCブームでゲームに触れてしばらく離れSwitchに触れた人
B の途中からでもいいが、ゲームの歴史を体感して順に遊んだ人
C Switchだけに触れている人

最もわかり易い例としてポケモンを例に出す。ポケモン赤はぶっちゃけ現在の視点で見ればクソゲーである。
これは当然だろう、シナリオはないに等しい、バランスは崩壊気味、オンライン対戦は当然着いていない。果たしてこのゲームが現在新規IPとして出て人気になるか?それは否、無理だろう。
ただそれはBCの人の意見であって、当時このゲームに触れた人はこれが最先端のゲームであったわけで、当時の視点で見れば良策なのである。
次にポケモンDPを例に出す。
ポケモンDPは中々難儀なゲームであり、ポケモン赤を遊んでポケモンDPに飛んだ人、ポケモンを順々に遊んだ人からは傑作…かは分からないけど少なくとも良作に近い作品だと感じる。
ではCの人間がこれに触れたらどうか?正直、これは分からない。
今のゲームに慣れた人からすればしんどいと感じる訳で、まあ少なくとも良作にはならないだろう。ただ、中身はしっかりしているから現代の視点で見れば光るところはあるけれど凡作、が近いのかもしれない。

ゲームというのはこれが厄介で同じゲームなのに体感した世代によってゲームの評価が乱気流のごとく変化するのである。
マリオ64とかが顕著だが、アレもオデッセイを経験した人間からしたら操作性は悪いわグラは悪いわでファイナルソードのようなゲームだが当時からしたら最先端なわけで、当時SFCから64の進化を経験した人からしたら感激なのである。

それにゲームは向き不向きがある。例えばFE何かはSRPGが得意か不得意かで、ぶっちゃけ不得意な人間からしたら面白みもないゲームである。
これも厄介であり、兎に角ゲームは主観的な感想が入るから一定した評価を下すのは難しい。
私はポケモンの初代~金銀が好きなのだがこれも正確にはFRLGとHGSSが好きなのであってぶっちゃけ赤とクリスタルをやれって言われたら辛い。
そういう訳で、ゲームは当時に遊ばないとつらい面は多々ある。
だから私はゲームは評価を対象外にしている、均一の評価を下すのは難しい。
ぶっちゃけ私がクリスタルを遊んでも面白い、より辛いしめんどくさいが勝つのである。ポケモン好きな私でコレだからまぁ…ねえ。

それでも事実として昔のゲームのほうが優れているのもあるのだが、(ポケモンのオフラインとか東方永夜抄とか)まぁそれでも難しいわけである。
FF7もいくら面白くてもアレを今から新規がやるのはねえ…、

話を戻すとして、初代の方が面白いは大抵事実である。これはハンターハンターやドラえもん等新旧見比べた私からしても確かにそうだと思う。

そもそもの話として一大ブームを起こすものがつまらない訳がない、というのは当然として初期に近づけば近づくほど制作者の哲学を肌で感じるからだというのもあると思う。後予算。

例えばハンターハンターを例に出すと旧ヨークシンと新ヨークシンは別アニメなんじゃないかと感じる。当時ハンターハンターいうほど面白くないな、と思った私がここ最近見て、面白いわ、となって評価を変えた理由の一つが旧ハンターだった。
理由の一つにセル画の暖かさ、と言うのは簡単だが私はこれを一言で表すのは好きではないのでどうしてそう感じるかを以下に描いていく。
まずセル画のよさは何かというと、良くも悪くも汚さがあると思う。正直セル画は汚い、ただ、この汚さが作品に対する奥行きを含んでいると私は感じた。
鬼滅がつまらない、という訳では無いが現代アニメは色が多彩すぎて暗いのに暗くないという現象が起きる。
更に言えば描写されすぎていて、悪く言えば想像の余地がないとも言える。
虚構の世界なのにも関わらず現実味を感じてしまうのが現代アニメだと感じた。
ヨークシンに話を戻すと暗いし汚いからこそ、得も知れぬ未知なる世界の不安さを偶然にも描くことが出来たのではないかと私は考えている。
ただ、これはあくまで要素の一つでしか無く暗さと汚さを極限まで引き出す監督の手腕にもあると感じた。

旧ハンターは今よりも使える色が少なく、全体的にくすんだ汚い色になっている。だからこそこの制限を逆手に取って、これを活かす方向にアニメ全体の雰囲気を持っていったのだと私は感じた。

たかがアニメではなく一つの映像作品として、これをはっきりと感じたのがクラピカとセンリツの電車のシーンである。
この話はセル画のよさが詰まっているのだが、カメラワークや間のとり方等たかがアニメとして作っているように私は感じられなかった。
更にBGMも手を抜かずに、更に目に見えない要素(例えば背景の色一つ取っても一辺倒にならないように色を重ねて塗ったりすることにより、奥行き感が出ているのではないか?という推測)を重ねに重ねて、旧ハンターが出来かがったのではないかと私は考える。
また、ノストラード亭に初めて赴く時…これは新旧上がっているから見てほしいのだが、明確に言葉には言い表せない、表すと逆に陳腐になってしまうがはっきりと制作者の心情の違いは感じられると思う。


次に上げるのがポケモンだが、ポケモンも上のハンターと同じで監督が世界観を理解して再構築して作成しているのである。
最近のアニメは原作を丁寧になぞらなくてはいけないというのは、ある意味で正しいもののある意味で一つの作品であることを放棄していると私は考えてしまう。
旧ハンター何かはオリジナル要素を入れたりしていたが、それが悪いわけではなくアニメハンターの世界観を更に深掘りすることに成功しているし。
まぁ、昨今の原作至上主義からすると新ハンターの方が評価が高いのかもしれないが…。

ポケモンは全盛期がはっきりしており、凡そ金銀の頃だろう。ゲームはどうかは分からないものの、64のポケスタ金銀は今見てもモーションの細かさに驚いてしまう。たかがポケモンだが、ゲーム制作一つ取っても手を抜いていない、これがポケモンが人気になった一つの理由だと私は考えている。

これを明確に感じるのがアニメで、当時ポケモンの世界観は今以上にはっきりしていなかった…というかてきとーに作ってた訳で良くティラノサウルスを出すのはありえない、とあるが図鑑にインドゾウとか出しておいて何を今更、という話である。
首藤監督もポケモンをたかがポケモンのアニメ、と考えておらず世界観構築から全て独自で行なったわけである。

アニポケの世界観の根底にあるのはほぼ彼が考えたと言っても過言ではないのだが、一つ一つ丁寧に見ていくと子供向けアニメのメディアミックスだから、と手を抜いているわけではないのがはっきりと分かる。
これが現代ポケモンとの違いだが、監督はこの時点でゲームのポケモンをそのままアニメに落とし込んでも面白くならない、と考えたわけである。
これは現代の原作至上主義と真逆の考え方だが、結果的に彼の考えは成功しているからここまで人気になったのである。

私が最近のポケモンを好きじゃないのだが、最早ポケモンは物になっている、というのがある。これは新無印のゴウが顕著なのだが人間>ポケモンの構図ははっきりしていて、監督が当初目指していたポケモン=人間との関係とは間逆なことがはっきりと分かる。

子供向け作品だから適当な事を言っておけば子供は納得する、そういう適当な考えで作られた作品が私は嫌いであり悲しいことに現代の子供向けアニメはこれだ。
プリティーシリーズとアイカツシリーズを見れば分かるが、末期は本当に酷くて…特にアイカツフレンズは世界観の説明や構築を放棄していて取り敢えずくっつけたお約束の展開をなぞり、テーマを口で説明するというアニメとしてあるまじき行為を行なっていた。

アイカツ一期を見れば分かるが、世界観の構築をしっかりとして、テーマもそんな薄っぺらい物ではなく敢えて語らないことでキャラへの深みを出すことに成功している。
それだけブームになるのはアニメがしっかり作られているから、という訳だと私は考えているのだが、どうにもこうにも末期になるにつれてアニメはどんどんと質は落ちていく。
結果的に子供すら寄り付かない、最早誰向けに作っているのかすら不明なアニメとなりシリーズは終わる。


ポケモンも悪い意味でこれを踏襲していて、アレは26年続いたものの物語に意味があるのは金銀までで、それ以降は無印の貯金を崩して作成しているだけである。そして首藤監督が作成した世界観を表向きだけなぞるからどんどんと異常な世界観になっていくわけで、新無印なんて滅茶苦茶やって炎上商法を繰り返して話題になっていたある意味でこれがサトシの最後か…と悲しくなってしまった。


首藤監督のメソッドに共存、というテーマがあるのだが初代ポケモンはこれを描くことに成功していた。バトル軽視なのもこれがあり、あくまでポケモンは物ではなく一つの動物であり、意思を持った生物だという事を伝えていた。
最初のピカチュウからしてゲーム的な考えだとありえなくて、トレーナーの指示には従わない、強くなる進化を拒む等、ゲームのアニメ化としてみれば失敗と言っても過言ではない。
それに、初代を見てみるとトレーナーに縛られずにポケモンとの関係を気づいている人が多いことが分かる。多種多様なモブ…一例で波乗りピカチュウを出すがトレーナーではなくサーフィンだけをしてピカチュウと過ごしていたことが分かるだろう。
また、ロケット団も監督が一つの理想形と示したようにポケモンと人間が=の関係で結ばれている。

そしてその世界観を深掘りするのにセル画が使われているのだが、セル画の暗さというのはポケモンという世界の影のある部分を描くことにも成功していたと私は考えている。
あくまでポケモンは思い通りになるものではない、という影の部分を書くのに必要な暗さ。例えばバイバイバタフリーだとかオニスズメに襲われるシーンだとか、こういう怖い部分、悲しい部分を表すのにもセル画の雰囲気は一役買っていたと思う。

ただ、それを跳ね飛ばすほどに明るいのがサトシというキャラで、初期のサトシはそんなまだはっきりと分からない世界で旅、という危険で怖い雰囲気を感じさせないことに成功していた。
あくまでアニメは子供向けであり、厳密にネられた世界観で表向きはそう感じさせず、映画は大人が見ても楽しめる作品を作っていた。

だから黄金期になったんじゃないか?と私は考えている。
アニメがサトシの物語としてしっかり芯があり子供が何も考えず見ても面白い一方で映画は子供と大人で違った視点で見ることが出来る。

つまりこの時期にアニメが認められたから今でも続いている(まぁ終わったのだが)のであってこれはドラえもんでもクレしんでもそう。アニメは厳密にネられた世界観(ryで価値が認められたからこそ今でも続いているわけだ。

これが大衆に受ける、ということだと考えるとレベルファイブの作品が子供向けから脱却しきれない原因が分かるかもしれない。
子供向けは何も知らない子供が見ても楽しめる 中学ぐらいではっきり考えられるようになった子供は別視点から見ても楽しめる 大人は作者が伝えたいテーマをはっきりと理解できる、の三段活用が大切であり、このうち1つかけるとそれはどこかで続かずに終わってしまうわけだ。


ポケモンは首藤監督離れてそのメソッドから遠くなり、奇しくもこれはドラえもんもそうだろう。作者が離れて大山ドラ末期は誰もドラえもんという世界をしっかりと描ける人は少なくなった。結果があの末期映画である。
わさドラは原作ファーストを掲げているが、初期の映画はボロボロで、ここ最近の映画は本当にドラえもんが好きな人が描いているからこそ評価が高いという現象が起きている。
世の中ほんとうの意味で子供向けを作ることが出来る人は少ない、だから適当に大人にだけウケそうな物語を入れたりするのである。最近だと新次元もそうだが…あんなのが当時放送されたとして国民的になれるわけがないのである。

最もドラえもんとポケモンを比較すると構造的に致命的な欠陥があり、ポケモンでドラえもんにするのは無理があったと言わざるを得ない。

結局コレも全ては下手にサトシを成長させたDPが原因であり、首藤監督が嫌っていた要素が人気になるのは皮肉な話なのだが。

評価が高いDPやXYでサトシが主軸で語られることは少ない、DPは大抵シンジとヒコザルでXYはサトシのバトル的な戦略とセレナが大半だろう。
最早サトシの成長は終わっているし下手に成長させると取り返しが着かないことになるからどうしようもないのだが、こんなのを見せられて果たして今の子供達は面白いのか?という感想になる。
このアニメブームとポケモンブームが起きた現代にてポケモンが上手く乗れなかったのは根本的に最初のアニメを作成した監督がいないしこのスパゲッティコードと化したポケモンを理解している人がいないという事だと私は思う。
もう一度全盛期アニメを生み出せる底力はあったはずなのに、結果的にふいにしたのだ。

結局サトシは長くやりすぎたし20年前のキャラを引きずっているからアンバランスでガタガタなアニメとかしてしまった。
今のポケモンより昔のポケモンのほうが面白いと感じるのはそれで、初期ポケモンが伝えたかったテーマが伝わり、アンバランスでガタガタになったサトシとは違いまだ、サトシというキャラに一貫性があると私は思っているからである。
そしてポケモンというアニメは1990年代に作られており、その時代でより良く見えるように世界観は構築されている。セル画の暗い雰囲気等は正にそれで、普段楽しいポケモンの世界の裏をはっきりと描いた映画ポケモン、アニメと映画は表裏一体であり最早取り敢えず作られたポケモン映画と違い内容は余りにも深く、今見ても色褪せることない名作だと思った。
余りにもポケモン商法が有名になってしまい、ポケモンのおまけとして悪い意味で映画は有名になった結果映画の内容は雑になり、この映画ブームにて火がつくこと無く下がってしまったのは、残念と言わざるを得ない。


長くなったが以上が私が最近の作品より昔の作品が面白いと考えている理由である。
作者の考えがはっきりとアニメに落とし込まれており、決して手を抜くこと無く世界観の構築として使えるものはすべて使っている。
だからこそ見応えがあるし難解で、何度も見たくなるのである。

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