安達としまむら、完読した個人的な感想を述べる

 まず最初に、この本はとても素晴らしいと思う。
面白いとかつまらないとか、尊いとか百合とかそういう言葉で表せるような作品じゃない、私が最初にこの本を完読した時の感想は、”余りにも美しすぎて言葉が出なかった”、そうとしか言えないのである。
そういう、この世にありふれた月並みな言葉でこの本の感想を述べることは出来ない、FantasticとかAmazing とか、すでに用意されている言葉を述べるのは適切なのかもしれないが
そんな言葉じゃこの作品の魅力、引いては緻密なまでに練られたこの物語の感想として、相応しく無いのである。

 さて、前置きはこれ位にして早速本題に入る。
失礼かもしれないが、三巻までは余り長々と語る事も無く、四巻からの内容がメインになるのでアニメを視聴している方は、ネタバレ覚悟で呼んでいただけると幸いである。

 三巻までは正直、安達にとってしまむらとは何か、安達の日常……つまり、友達であり続ける場合はどうなのか、という体で話が進んでいく。
つまり、私達は一年間という長い時間を三巻というボリュームで体験して、安達にとってしまむらがどれほど大切なのか、殆ど人と関わらない安達の変化した日常はどのような感じなのか、がメインなのだ。

 ある意味で、それは正しいのかもしれない。例えば、クリスマスとかバレンタインとか、ちょっと変わってる友達位のポジションで居続ければ来年も再来年も一緒に居続けることは出来るだろう。
友達……まあ、親友と言っても差し支えない位に二人は一緒にいるし、このままでも良いのだろう。良いと安達は思っていた。

が、一度はそう思う安達も四巻からは、本当の気持ちに気付いていく。
変わるもの変わらないもの、それらは一言でいえば線引きは難しいと思う。
例えば、変わらない方が良い物はあるし、今すぐに変えた方が良いものがあるのかもしれない。
クラスは変わらないで欲しい物だったけれど、否応なしに変わり、そして変化していく、二人を繋いでいた体育館にしまむらは来なくなり、お互いに変わり始めていた。
しまむらは、そういうものだと受け止めて、何も気にしない。
変わる事が自然の道理だと知っていたから。
安達は受け止めたくない。それでも、待ち続けてもそこには来ず、一人取り残されいたことに気付いたから。
子供が大人になる事に、逆らってもその流れに背くことは出来ない。
このまま一人で変わりたくないままに過ごしていても、変わらないのは安達だけで周りの人間は変化し続けてしまう。
だから、行動に移した。

 一番の友達って難しいと思う。安達はそういうのが無いから、色々な複雑な感情を抱えている。
ある意味で誰に大しても興味がないしまむらだから、面倒くさい友達位で接してくれているのかもしれない。
普通に考えて、友達に対してここまで束縛するのは異常だと思う。多分、異常だ。
相手の事を考えない……例えば、小さい子供は空気とか読まないし、自慢したければ自慢しにくる。特に善悪の意識とか無く、ただ単純に、自分を見て欲しいから。
安達も似たように、一緒にいたいからいたい、電話していたいからしていたい。そこに善悪とかの区別は余り無くて、ただ初めての経験だから、それを味わいたいとか、そんな気持ち。
四巻で、距離が縮まったのを自覚して、多分、一番の友達だろう、と。
実際、学校もまあ自分の目の届く距離にいるし、夜もほぼほぼ電話していたから多分、他の人とは関わっていないだろう。
友達と聞いて一番最初に浮かべてくれる人になれた……と思っていた。

それでも、そう上手く行かないのが人間関係であり、五巻で自分以上に近い人がいる事に気付いてしまった。その距離は一年近くしかいない私達よりも近い、と。
結局なれていなかった、と気付いた安達は一度離れようとしても、上手くいかない。
いつの間にか、一人の生活より二人でいる生活が当たり前になってしまっていたから、結局のところ無かったことには出来なくなっていた。
それでも、どういえば良いのか分からない。世論的に言えば正しいのはしまむらで、間違っているのは安達だ。
同じように友達と遊びに行っただけで、それを問い詰める権利は無い。ただ、ある程度理解してくれるだろう、と思っていた安達はそれとなく聞いてみる。あれ、誰とか、いつから一緒にいるの、とか、多分、応えてくれると思っていたんだろう。
 でも現実は非情で伝わらない、というか、伝わらなくて当たり前だと思っていたけどもしかしたら伝わるだろう、と期待していた分余計に。
結局その後は、突きつけられた現実と向き合えず、自分でもどうすればいいか分からない感情を吐き出して、そして終わった。

しまむらからすれば面倒くさいのである。
何というか、常に損得で物を考えて、誰とも深く付き合わずに流れるように生きているから、そういうよくわからない状況に陥って、どうすればいいのか分からない、というのが正直な所か。
そもそも何で泣いてるかすら分からないから、どうしようも無いのかもしれない。
当たり前だけれど、普通に友達と遊びに行ってそれで泣かれるような経験はまずない。だから、何か別の要因だったのかもしれない。けれども、正直何言ってるか分からないから、安達と同じように自然と出てきた言葉だった、と私は考えている。

さて、物事はめんどくさかったから無かったことになり、いつもと同じように接するしまむら。
結局安達に対して距離を置くのもめんどくさいからだと思っていたが、実際はどうなのか。
まあでも、少なくとも安達の友達がしまむらしかいないから、だろうと思いごく普通の提案をする。
間違ってない、ある意味で一人に対するより同じものを三人とか、百人に分担すればその分お互いに軽くなる。
こういう気持ちになってももう一人誰かがいれば、その人に話してそれで物事は終わる。
だから、ごく普通の提案。その人の事を考えた訳でもなく、一般論。学校の先生と同じだ。
十人中十人が正しいと思う答えを述べられて、なりゆきで遊ぶことになる安達。
でもやっぱり楽しくない、楽しいとか楽しくないとかよりも、何かが違った。
夏祭りでは自分の知らない領域で話が展開されていて、結局自分を見失った。
今日は、自分が見ている範囲でも、何かが違った。
結局、自分がいるかいないか、知ってる人知らない人なのか、そんな問題じゃなくて自分を見て欲しいんだ、とはっきり気付く。
個人的にだけれど、五巻214pの6行目の「楽しくなかったでしょ」はこの物語全体の中でも屈指の名シーンだと私は思う。
経験で楽しくなかったんだろう、と推測するしまむらと楽しく無いのは分かっていて、それでも今より悪くなるかもしれないから無理やり楽しい、と言う。
誰がどう見ても正しい提案、それを理解して受け入れようとしても、結局受けいれられない。
無理やり思い込んでも、違和感ばかり大きくなる。
それが好きと気付いて……もう戻れなくなった。


話は六巻、遊びに誘う事から始まる。
結局、無理やり普通になろうとしても普通になれないと気付いた安達は、普通では無い道を突き進むことにした。
普通なら、あの時の続きで親睦を深めるべきだけど、普通じゃ無いのでしまむらを誘う。
それが自分にとって最善で、そうだと気付いたから。

三日間、個人的には三日という響きは何とも言えない特別さを感じるのはムジュラの仮面のせいだろうか。三日あれば世界は救えるけれど、大多数は普通に過ごしている。
安達は三日間で、前の一人に似た生活を感じながら、ある意味で空白の時間を送っていた。
それに気づいて、取り合えず、行動に移して、それから考える。
時間は一方向にしか進まず、逆に奏でても遅くなるだけでしかない。何もしない時間と言うのは何もしないという結果を生むだけだが、何かをすれば最悪良いか悪いかの結果は帰ってくる。
そんな二人は帰ってきてから再開して……何故かお風呂に入る。

 何物にも染まらないしまむら、白に近い金髪の髪は、何者にも染まらないという白だけれども、何かを混ぜれば少しずつ変化は生まれていく。
優しいか優しくないかは置いといて、好きだから頑張っている。常に中立なしまむらからすればその気持ちは分かるようでわからない。
ただ、何となくは感じるものがあった。
安達と会ってから、何も変わっていないと思っていたしまむらだったけれど自分が安達に傾いている事に気付いていく。
ふと考えてみると、安達の事を考えていたり、電話がそうかもしれない、と思ってしまったり、自分では気づかない程の変化。
常に中立だと思っていたけれど、実際は7:3ぐらいで傾いていて、その事に気付かされた。
変化を受け入れたら、変わってしまう事を自覚している。
周りとは違う事をすると、その分周りと調和する時間が少なくなる。
そうした先には……何が待つんだろう。
されたから返さなくちゃいけない。相手が何かをしてきてくれたから、こっちも返す。
そう考えていたけど、それを変えてみても良いのかな、と感じた。
個人的には、ここで変わる事を恐れていたしまむらが最終的に安達しか見えなくなっていたのは何というか……余りにも感動してしまった。


 さて、安達と一緒に来る夏祭り。
二人はお互いに浴衣で、お互いの事を考えて、いた。
ある意味で、二人は運命というか、偶然が積み重なっているのかもしれない。
この夏祭りも、もしかしたらお風呂でのぼせなかったら何も変わらなかったかもしれないし、安達母が出てこなかったら髪型も変わらなかった。
偶然が積み重なって、この夏祭りへと導かれ、楽しい時間を過ごす。
楽しい時間のまま終えたら、多分……幸せだろう。
前にも進まず、後ろにも戻らない。現状維持で居続ければ、何も変わらないし、今の生活は保障されている。
それでも、変える事を決意した。その瞬間。


いや、分かっていたけれども……取り合えず、落ち着いて話そうと提案する前に逃げた安達を追うしまむら。
もうこの時点で安達の事を大切に思っていて、またしても感動してしまったが、話を戻して、会話を試みる。
もしかしたら、万が一、億が一、勘違いかもしれない。
あくまで安達は友達として好きなんじゃ無いか……と。だから、確かめるように訪ねていく。
この時の会話の、見て、考えて、は六巻を通じて痛い程伝わりこれが慰めの言葉ではない事に気付いて、全てをこの会話につなげるために六巻を執筆していたのかもしれない、と思うと入間人間先生の素晴らしい構成力、ひいては文章力に驚かされてしまった。
しまむらはある意味、安達に冷たいし、興味が無かったとも言えるけれど
そのしまむらからの思いが六巻という一冊だけで、思いが伝わる。
これが本心だと、五巻の時のすべてに平等でめんどくさいしまむらが面倒くさがっている訳では無いんだ、と訴えているようで、恐らくこのシリーズ髄いつの名シーンだろう。
是非、アニメで視聴したい。
さて、脱線してしまったが、この後の安達の問いが非常にまた泣けてくる。
世間一般的に、まあ最近は同性愛も認められつつはあっても、やはりまだまだ普通、と言い切る事は難しい時代。
それでも、それらすべてを受け入れて前へ進む事を決意したしまむら。

このように、五巻まででもすさまじい程にお互いの気持ちが伝わってくる。次の七巻は、変化した日常にスケールが当てられる。
123は普段の二人、変な安達とあくまでたくさんいる中の一人でしかないしまむら、456は進展、そして789はその後の二人だ。
余り変わらない、と思っていたしまむらだったけれどその実態はそれなりに変わっていて、ある意味で特別で、新鮮だった。
上でも少し述べていたが、七巻で完全にしまむらは変わった。
私しか見ない、と述べていたけど実際は安達しか見ていなくて、変わったしまむらを安達は受けいれている。
七巻の最後の方で修学旅行の話が出ていたが、この話は八巻に持ち越される。
八巻で驚くべきことは十年後から話が展開している事だと思う。
私は呼んでる当初、高校二年生の旅行だと思っていたがそうではなくてそれよりもずっと先の話だったことに驚いた。
個人的には、この二人は余り変わっていないと思う。
しまむらは結局安達以外に興味とかが持てなくて、安達も変わらなかったみたいだった。
それでも、この二人はその方が良い。
お互いに……しまむらは感情が軽くて、安達は愛というか想いが重い。
普通という水面に浮かぶ事が出来なくても、この二人だと丁度普通に人間らしく、なれるのかもしれない。
話は戻って、二年生の修学旅行だが、まあ、ある意味で変な二人はやっぱり変で、明らかに浮いていた。
一緒になった三人も引き気味だったし、最初の頃にある程度話していたけれどもう、その名残も無い。
普通にしていたい、と思っていたけれど普通じゃない、と割り切ってみればその実そっちの方が楽だったことに気付いたのだろうか。
修学旅行、幾つか特筆したい点はあるが、代表して霧の二人に着目する。
安達にとってしまむらが大切なのは、全体を通して痛い程分かるが、しまむらからの視点というのは……実はあんまり無かったりする。
全体的に安達に振り回されていて、読者がそうなのかもしれない、と感じることでしか出来なかったが、この時にしまむらははっきりと、もう、戻れないと意識していた。
上の考察でも書いたが、だからこそ、十年後も一緒にいたのだろう。
十年後の後も絶対一緒にいるし、あっちの世界でも恐らく一緒にいる。
九巻の感想も述べたいところだが、話のキリもいいのでここで終わらせて頂く。

 このような素晴らしい作品を生み出して頂いた入間人間先生、アニメを制作して頂いた手塚プロダクション様、これをアニメにしよう、と企画を動かして頂いた名前の出ていない数多くの皆様、感謝の念に堪えません。
正直な話、この原作は最初読んでおりましたが、ちょっと変なきらら系のお話だと思っており、その独特な文体(安達としまむらの視点が交互に切り替わる)で、一度は敬遠してしまいました。
ですが、アニメ化される際に思い切って読んでみよう、と思い至り、このような素晴らしい作品に巡り合う事が出来ました。
繰り返しますが、非常に感謝申し上げます。



 


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