闇に打ち勝てる力
「性悪説と性善説どっちだと思う?」
最近友人に問われてすぐに自分の意見が言語化できず、ひとまずパートナーの言っていたことを言うね、と伝えてみたことがある。
パートナーは、
悪いことをする人、というのは、その人が悪いのではなくて、"社会がそうさせてしまった"。と言っていた。
周りの環境に捻じ曲げられていく、と。
だから、
人として暗闇に落ちている人は、
「今そういう時」
なんだな、
というだけで、
金輪際嫌いになるわけではないし、
性根が腐っている、と思うわけでもない。
つまりは性善説にあたるのだと思う。
それからずっと、私はどうか?と考えていた。
結論、
私はサンドイッチ説、だった。
(いや新しい造語を作るなよ、という感じだがひとまず聞いて欲しい。)
どちらに近いかと言われたら、
つまりは性善説なのだが。
さて、サンドイッチ説、とは、
優しさ→猜疑心・悪意・嫉妬・その他ネガティヴ要素→優しさ
この心の構造のことである。
生まれつきどれくらいネガティヴ要素が強いか弱いか、というのは人それぞれありそうだが、
少なくともネガティヴ要素が全く生まれない人間はいないと思っている。
仏も煩悩を消してきたわけだし、
大前提としてネガティヴ要素はそもそも生まれてしまうもの。
そしてそれは、社会のせい、だけでなく、
自然と湧き出てしまうこともあると思っている。
どういうことか。
例えばケーキが一個しかなくて、それを目の前にした子供2人がいたとして、
気性の荒い子供たちならまず取り合いの喧嘩になるだろうし、
優しい子供たちなら「半分にしよう」という意見に落ち着くと思うのだが、
後者の優しい子供たちの心に、
「本当は全部1人で食べたい」という欲がゼロだったか、と言われると疑わしいと思う。
ただ、後者の子供たちは、その"独占したい"というネガティヴ要素を「優しさ」で抑えたのだ。
本来持てる「優しさ」、すなわち他者に対する愛を思い出し、
そこに立ち返ろう、と、したのだ。
生まれてしまったネガティヴ要素に打ち勝つだけの光を持てる人。
私はそれができる人に感動する。その強さ、美しさに涙する。
性悪説であれば、
スタート地点の「優しさ」は存在しないから、
ネガティヴ要素→優しさ
という、
「優しさ」が無理して身につけたような、取ってつけたものになるはずだ。
だがしかし、
私は本当の優しさを持つ人たちを見たときに、その優しさが、
成長する過程で身につけた処世術のようにはどうしても思えない。
生まれたとき当たり前に持っていた純で愛に溢れた感情を、ネガティヴ要素が生まれたあとでもちゃんと引っ張って一番上に持ってこられている、そんなような姿に見える。
作り物ではない、人間がベースに持っている「愛」の優しさ。
醜い感情にのまれてしまっている人は、
日々湧き出るネガティヴ要素に対抗する力が弱っているのだし、
本当は自分が性善で優しい人間であることを忘れていたり、
はたまた自分の裸の優しさを表に出すことはとても勇気がいるから、楽に感じる悪に流されてしまっているだけだったり、
ただ単に対抗の仕方がわからないだけかもしれない。
また、優しくいることに疲れてしまっている人は、
自分が自然と優しさを持って生まれたことに気づかず、
周りから真似したり学んだりした作り物のテクニカルな"こうすべき"な「優しさ」でカバーしようとするから、
自分の生の感情との乖離を感じて「私はやっぱり心の汚い人間なんだ…」と鬱になったり、
知らず知らずに無理が祟って心が疲弊するのだと思う。
本当はもっとシンプルで、
色々武装したものは手放せばよくて、
ただ、生まれたときに持っていた優しくて弱くて柔らかい自分を思い出せばいいだけである。
優しさ→ネガティヴ要素→優しさ
この3つ目にくる 優しさ が、
1つ目の 優しさ と同じものになったとき。
人は本当に楽になるし、
自分をもっと好きになれる。
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