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ほんとは最後までやりたかった~吹奏楽部の思い出~

中学では大した部活をしていなかった私は、高校に入学して吹奏楽部に入った。
 もともと音楽は好きだったが、ずっと中学までほぼピアノ第一の生活をしてきたので、初めての経験だった。

 私が在住している愛知県は、かつて公立高校入試に「学校群制度」という物を取り入れていた。受験は群で受け、合格したら群のどちらかの学校に振り分けられるため、必ず自分が希望した学校を受けるためには群ではなく単独校を選ばなければならないが、生憎単独校の中に私が行きたいと熱望する高校はなかった。それで必然的に選んだ群で、行きたいかどうかよくわからないほうの学校に振り分けられたこともあり、気持が耶探れていた…のかもしれない。

 吹奏楽部は文化部だが、「体育会系」だ。なぜか1年生はジャージで集合しろと言われ、学校の周りを走らされて腹筋などをした。私は打楽器パートだったので、腹筋じゃなくて腕立て伏せをした記憶がある。
 当時は土曜日も授業が毎週あり、その後に部活があるという時代だった。夏はコンクール。秋は文化祭。今のように定期演奏会なんぞをやる学校は少なく、私の母校もそこまではしなかった。一番大変だったのは、高校2年の時だった。年がばれるが、その年は愛知県に高校総体のお役目が回ってきて、吹奏楽部員は開会式に駆り出されたのだ。夏の暑い中、式典の曲の練習をした。腕も足も真っ黒に焼けて、「お前は運動部員か」と思われるほどになった。

 パラディドルが苦手でなかなかうまくならず、煮詰まることもあったが、部自体はやっていてとても充実感があった。多分私は吹奏楽部に入っていなかったら、不登校になっていたくらいなのだ。
 そんな思い入れのある吹奏楽部との突然の別れは、高校3年生だった。

 高校卒業後の進路として決めたのは「音大」。
合同練習などで一緒になった他校の子ほどの腕があるわけではないから、打楽器で受けることは考えなかった。それに、高校2年間本当にピアノはあまり弾いてこなかったから、ここでちゃんとピアノをやりたいという気持ちもあった。
 習っていたピアノの先生も、顧問の音楽の先生も、私が音楽教育科で受験すると思っていたみたいなので「声楽はどうするの」と聞いてきたのだが、私は今更間に合うかどうかわからない声楽のレッスンをする気はなかった。
私が射程に入れていたのは、あくまでピアノ専攻だった。自分よりうまい子はたくさんいるし、高校2年間本当に練習もできてなかったブランクを埋められるのかどうかも分からなかったけれど、とにかく音大に行きたい、その一心だった。

 そうなると、時間の拘束がある吹奏楽部を続けるほど余裕はない。
本当はとっくにチェルニー50番に入っていなければならなかったのに、部活で忙しいのを言い訳に、大嫌いな40番(本を破って捨てたいくらい嫌いだった)をのろのろとやっていたし、受験でついた先生からはインヴェンションのやり直しと、初見の課題も出された。モーツァルトのソナタの1楽章を今迄3か月でやっと仕上げていたのを、1か月で暗譜迄持っていかなければならない。楽典も、ソルフェージュもある。

 唐突に退部することになり、よくある後輩からの「先輩ありがとうございました」の寄せ書きももらえず、ひっそりと部室から去らなければならなかったのはとても悲しかった。本当はコンクールだって出たかった。だけどそんなことをしていたら音大なんて無理だ。苦しかった。

 最後まで部活をやりたかったなら、どうして音大を受験するなんて言い出してしまったんだろう。連作小説「ノクターン」のヒロイン、里穂の言葉は、私の言葉だった。
 でもね。

 私が音大を目指そうと思ったのは、吹奏楽をやったからなんだよ。
 練習はきつかったし、部長とは波長が合わなかった(たぶん)。嫌なこともあった。上手くなりたくてもなかなかなれなくて悔しかったし、いい先輩じゃなかったかもしれないけど。

 アンサンブルの快感は、得難い経験だった。
 音楽が好きってこういうことってわかったんだ。
 だから、本気で音楽を学びたい、って思ったんだ。

 続けられなかったことをずっと後悔してきたけど、音大を受けてちゃんと受かって、卒業できたことは悔いがない。


 そして。
 娘が吹奏楽部員として中学3年間を過ごすのに寄り添って、はじめて私は心から、自分が吹奏楽が大好きなことを、たった2年間だけど吹奏楽に関われたことを嬉しいと感じた。

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