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小さな絶望と想像

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

これは、上野千鶴子さんが述べられた、東大入学式での祝辞。

世の中には、素敵な言葉がちゃんとあって救われる。
私は、素直に「がんばったから報われたことがある」側としてこの言葉を受け止めることはできないのですが、だからこそこの言葉に希望を見出せたのです。(一方でどこかの誰かからみたら、私は「がんばったら報われる環境」に生きているということも理解しています。)
そして、自分が何か報われた時には必ずまた思い出したい言葉であるとも思いました。視点を変えて循環して受け止め続けたい言葉です。

越えられない異文化(異認識)はあちこちにあります。生まれ育った環境、信じていること、おびやかされたくないこと。社会を構成する様々なものごとや疑われることのない認識は、時に本質から離れていたり、利己的であったりして、その度に私は一人で、小さな絶望を繰り返してきた気がします。だけど不条理の中だからこそ生みだされたクリエイションがこの世にちゃんとあることにも気づきました。

新しいことを生み出せる人は、まず絶望に向き合う強さがあると思います。発想の素晴らしさ、そしてそれ以上に愚直に世の中と向き合えることが才能なのだと。向き合っているという意識がなくても、何かを通して向き合っているんだよね。


自分の話に戻りますが、今年は特段に落ち込むことが多かった。
落ち込むようなわかりやすい出来事は今年の春に1度あっただけだけど、積もり積もってゆるやかに、落ち込んでしまう日があった。

そうなんだけど、自分のことだけ、自分の将来だけを考えていると、苦しくなる瞬間がある。
夢を叶えられなかったことが、こんなにも自分に影響を与えるとは想像できなかった。だけど、上手くいくことよりも、上手くいかなかったことが重要な経験だったと信じています。そうであってもらわないと、前に進めないからなのですが...。

落ち込んだ時、何かに没頭していると、なにかの拍子に仕事やら、友達との約束やら連絡があって、ふっと心地よい現実に戻れる。忙しいことは有り難かった。仕事も友達も、健全な日々に戻れるよう、本当に支えてもらったなぁと思います。

原田マハさんの『ゴッホのあしあと』の一節が、心に残っています。ゴッホに向けた言葉だと思います。

だから私は、幸せな結末だとあえていいたい。死んでしまったのだから終わりだとは思いたくない。彼は死んだのではなく、むしろ永遠の命を与えられたのです。傑作は永遠の命を生きるもの。

私にとっては、人との関係も、物事の終わりも、死も、同じ解釈ができるように思えました。



ひとりになると、美しい街並みと美しかった人を思い出す。一度は描いた未来に想いを馳せる。
イメージすることは重要なことだと思う。実現できても、できなくても。だけどイメージ以上に、それらを解釈することの方が大切だと思うようになりました。なにを残したいのか、それでしかないなぁと思います。ああ、私にとってそれはなんだろう?

いろんなことにこだわっていたけれど、何かがなくなっても、本当に大切なものはちゃんと残るのだと。奇しくも、コロナによって変化した世の中は、それらを顕著にしてくれたと思います。

「それを表現しないと死ぬしかない」 
「それを表現しないと死ぬしかない」というくらい追い詰められているのか、という自分への問いかけが作家にないと、本当にいい表現はできない。

山本耀司さんのことば。

日々いろんなことを思う。思い出す。いろんな解釈をして答え合わせをする。安心してまた前に進む。だけどつまるところ、「それを表現しないと死ぬしかない」この一言なのだと思った。私にとってはつらかったこの一年間を、なんだか少し肯定してもらえた気がしたのです。

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