私を不幸にしたい人のためには不幸になれない
2008年3月某日、高校受験の日。
休憩時間にトイレに行ったら、たまたま会った友達に、面と向かってすごく嫌なことを言われた。
なにも受験の日に言わなくて良いのに!と思ったけど、一緒にいた友達からは、あの子はさきちゃんを落としたいんだなって思ったよと言われた。
あ〜なるほど。たまたま会ったわけでもなく、きっと確信犯。その事実にまた、胸がちょっと痛くなった。
ずっと気にしながら、受験は終わって、数日後。
私は受かっていた。あの子も受かっていた。
なんとなく中学生なりにも、どちらも受かってよかったな〜と思った自分を覚えている。
あの子のために私が不幸になる理由もないし、あの子が不幸になる理由もない。厄介なのは、不幸だと思うのは案外簡単だということ。
そんなことも思い出すきっかけがないくらい忘れてたけれど。
大人になった今、似たような出来事が突然起こって思い出したのである。
そういうわけでここ最近の私は、本当に落ち込んでいた。というより傷ついていた、というほうがあってるのかなぁ。
大人になってから、こんなに理不尽で悲しいことに直面していなかった…気がする。
でも、私を不幸にしたい人のためには不幸になれない。
ああ、改めて、大事なものを大事にするということを、定義しなければならないね。
幸せになるほうが、努力がいるんだなぁ。
最近は、大好きなはずのSNSの使い方が分からなくて、
というよりも、何かを言葉にすることに意味はあるのか、ということを考えているのだけど、
対1人への想いや言葉は浮かんでくるのに、対Nになると一気にわからない。
だから、自分のために書きました。
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