フルムーン

久しぶりに、親友と会う。
私が東京から引っ越す前は、お互いの近所でフラッと会い、ファミレスで何時間もおしゃべりしていた。この数年間当たり前に続いていたそんな日々が終わりを迎え、滅多に待ち合わせしない街で久しぶりに会い、コロナで店が開いてないからフラフラ歩く。
こんな時でも新宿は人が多い。そして、歩くだけでも楽しい友人がいることはとっても幸せなことであると思う。

まろは、見た目がポップでワチャワチャしてると思われがちだけど、本当はすごく静かで凪みたいだよね〜。と言われ、そうなんだよなぁ。と再認識し、そんな角度で自分を見てくれている人がいて嬉しくなる。

昔、少し親しくなった人に、君は派手な格好をしてるから本当は目立ちたいと思っている、そんなことは見たらわかる。と言われた時に、私の何を見てたのだろう?と思った感情も蘇った…。うむ、表面で物事を見る人の解釈は、そうなのだ。

想像力の好みという言い方が合ってるかはわからないのだけど、やはり合う想像力と合わない想像力ってのがある。
そして自分の想像力を浪費されることが、私はとっても嫌なのだ。世の中のために使うことはいとわないのに、浪費された時は光の速さでそのことを認識してしまう。
それにしても、2者の溝は深い。
想像力の方向が異なる人に、どれだけ期待されても自分の想像力を使わないというのが最近の一つの処世術。敬意は忘れず、だけど良い距離感ってのを保っていきたいものです。失望しないように好きのままいれるように保つことも、尊敬なのだとようやく気づく。

人は、自分ではないものになろうとしているから苦しくなるのです。”氣が枯れる”でケガレ。
自分の闇ややましい部分などではなく、誰かの知識であったり、本当はこう思っているけれど、あの人に合わせてこっちの方がいいんだろう、というような自分ではないものに囚われた状態をケガレというのです。

人の欲を感じる場面が苦手なのに、行動を観察しては憶測してしまうから、人間嫌いがたまに加速する。

ある人が私に言ってくれた。
「弱さに漬け込んだり、弱さを隠したり、人間の本質的じゃない部分が嫌いなだけで、
人が弱いということを受け入れる心を持っているよ」
その一言で救われる。

この世界で生きていく上で
なぜ自分の目で見て経験しているのか
そんなことの意味を考えながら過ごす

意地悪な人ももちろんたまにいるけれど、それは社会が作り上げたしがらみなのかもしれない。

わかりあえなくて諦めてしまうことも増えたけれど
これだけは!というところを大事に抱きしめる。
みんなにわかってもらえなくても、誰かと、ちゃんと深い何かが芽生える。
それが私が私でいるためのたった一つの武器だって信じたい。

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