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コロナ禍の8月6日に思うこと

毎年8月6日は生きていることへの感謝を噛みしめる日にしている。

お前、東京生まれHipHop育ちとか言ってるじゃないか、広島関係あるの?とリアルな友人たちは思うかもしれないけれど、私の父方の祖父が広島で大学に通っているときに被爆してるので私は被爆3世にあたる。

祖父は去年亡くなってしまったのだけれど、生前8月6日のことを聞く機会はあまりなかった。私が小学生くらいの頃はおじいちゃん・おばあちゃん世代がほとんど戦争体験世代だったので、夏休みになるとよく道徳の時間に
「おじいさんやおばあさんに戦争ときののできごとを聞いて平和について考えてみましょう」
という宿題が出ていた気がする。母方の祖父母は東京にいたので、祖母はよく東京大空襲の話や、それまで裕福だった家庭が一変して、曾祖母が貴重な着物とお米を交換したり闇市に行った話などをしてくれた。祖父は兵役に出たがポンコツであったためにシベリアに行くリストに入らなかったとかなんとか言っていた気がする。もちろん、それぞれに地獄があったことは容易に想像ができる。

一方で、父方の祖父が自分の被爆体験で語ってくれたことは2つしかない。

・爆心地から1キロほど離れたところで被爆したこと、たまたま横にコンクリートの分厚い壁があって助かったこと
・それでも被爆から1週間後に髪の毛が全てぬけてしまったこと

普段大きな声で話していた祖父がこの手の話になると少し目線をそらしたり、小さな声ではなしていたので「祖父は話したくないことなんだな」と思って、それからほとんど話を聞いたことはない。

大人になって気づいたけれど、祖父は、ものすごく運が良かった。
十万人以上も亡くなった広島で、同じ距離にいても亡くなった人が多数いる中で、その瞬間横にコンクリートがあって命拾いをしているわけだから。
そして、もし少しでもいる場所が違っていたら私という存在はあるはずがないので、小さな偶然の積み重ねで命が継承されていると思うと有り難みがすごい。
(と、同時に継承されるに値する人間なのか?と問われると頭が痛い)

それから祖父は地元に帰って教師になった。
割と地元では有名な先生だったようだし、町を歩くとあちこちで「先生!」と声をかけられ、帰省するとなぜだかまわりの人は孫である私の進学先の学校など、細かい個人情報を知っていた。あの先生の孫、というところもあって噂になりやすかったのかもしれない。

卒業した生徒の話や教師時代の思い出をいつも楽しそうに話していたので、てっきり教師になりたくて教師になったと思っていたのだが、実は大阪で就職が決まっていたのだけれど、被爆したせいでその就職がだめになり、地元に帰ってきたと別のひとから聞かされた。

私は現代生まれなのであまりわからないが、はだしのゲンやヒロシマ関連の番組なんかを目にすると、非科学的な根拠による被爆者への差別は凄まじかったのだろうなと思う。全く悪くないのに。むしろシンプルに被害者なのに。
当然就職のみならず結婚や子供を持つことを諦めた人も多かったのではないだろうか。祖父もそんな噂や差別を真に受けていたら、これまた私が生まれていない。

昨今物議をかもしている、都会嫌悪や感染者の特定や中傷などの状況を見て、私がモヤモヤするのは、おそらく私がそのたぐいの非科学的な噂信じてしまったり、中傷に屈していたら生まれていない子だから、かもしれない。

コロナにかかった人が悪いわけではないし、回復したあとに差別を受けるべきではない。トイレットペーパーの売り切れにはたまげた。戦後75年たっても人々が根拠もない噂に惑わされ、科学が発展しているにも関わらずそのエビデンスを信じようとしない。いくら時代が回っても、人間の「わからないものは怖い」という本能は強いとも言えるのかもしれない。
正しく恐れ、正しく行動することが一層求められ、それができるかを試されている気がする、と改めて思った。

とくにまとまりのない文章だけれど、祖父がいなくなってはじめて迎える8月6日に何かを残しておかなくちゃ、という気持ちにかられたので乱文で残しておく。多分恥ずかしくなるから消すかもしれない。

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