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2023年4月28日のLa dolce vita/甘い生活

“以下の文章のなかの人物も出来事も、間近で観察され、慎重に描写された、コロナ禍とロシア・ウクライナ戦争下の神奈川県横浜市のとある地域のものではあるのだけれど、それぞれの関係者の意図や考え方の違いを考慮して、すべての登場人物と出来事は私の想像の産物であり、私の頭のなか以外には存在しないことをここに明言する。
(トレヴェニアン著 江國香織訳『パールストリートのクレイジー女たち』から一部引用)”

花粉症デビューによる発熱、倦怠感、吐き気が過ぎるまではまとまった文章は書けないのではないか、と思うほど消耗していたけれど、だんだんこの状態に慣れてきたので(西洋医学と東洋医学のミックス治療の効果もあると思う)微熱のままこの文章を書いている。かなりのレアケースではあるけれどこの発熱が花粉症発症によるものだと最初から見抜いていた東洋伝統医学の天才治療家は私の体に触りながら言った。「貴方の体はなんとか踏ん張っているけれど、大きな抑圧がある。よく抑えているけれど、このままでは破綻するかもしれない、危うく感じる」

私の父は、狭義で言えばアレキサンダー・マックイーンやケイト・スペード、広義で言えばエイミー・ワインハウスやカート・コバーンのような形で亡くなった。彼は長年アルコール依存症で、最終的には殆ど動けなくなり、公的な扶助を受けるべく、私と一緒に手続きを行った直後の出来事だった。死の前日に私は電話で話していて、最後に私が彼に伝えた言葉も覚えている、「寒いから、暖かくして寝てね」。翌日、父から私に宛てた宅急便が届き、その中に私だけに宛てたメモ書きの遺書があった。Lilla Flicka名義の『通過儀礼/Initiation』をリリースして1週間も経たないうちの出来事。

アルコール依存症に関しては、何度も「私が」治療を試みたけれど、父本人が医師の前で「一生酒をやめる気はありません」と宣言し、医師も匙を投げた。思うに、病気というのは、本人が治したいと思わない限り治らない。依存症は、一見依存対象が悪いように見えるかもしれないけれど、何かに依存しないと耐えられないような精神状態がその正体である。

人の一生は花の挿さった花瓶のようなもので、花瓶の底に穴が開いていたら、どんなに何度も何度も水を注いても、水は失われていくばかり。その花瓶には生まれたときから穴が開いていたのかもしれない。そのハンディキャップを持って、まともに生きていくのはとても大変なことだ。でもきっと穴が開いた花瓶の中には、自らその穴を塞いで、あるいは誰かにその穴を塞いでもらい、あるいはお互いに塞ぎ合い、あるいは滝の下に移動し(でもこれは花には超絶過酷だな 笑。なんとかいい具合の分量の水しぶきが飛んでくるぐらいの位置が見つかりますように)、挿さった花を最大限に咲き誇らせることができるものもいるに違いない。

私は7年前まで父と暮らしていたが、あるタイミングで到底耐えられなくなり、家を出た。そのときに思ったことは「この人は私がいなくなったら死んでしまうかもしれない」。それでも、父と娘の関係が健全でない状態に私は耐えられなかったし、今でも耐える必要はなかったと思っている。父と娘の関係は健全であるべきだ。頭ではそう思考する私も父の死以降、パニック障害と睡眠障害を併発し、完全に無傷であるとは言いがたい。まず最初に私を襲ったのは死の恐怖と罪悪感で、初期段階ではまずひとりで閉鎖空間にいることがとても恐ろしかった。父は私を恨んでいるのではないか、私は呪われているのではないか、とパニック状態の私は思ったものだ。でもある日父が夢枕に立ち、私にひとつひとつを解説してくれた。

私に全てを背負わせるつもりはなかったけれど最終的に結果として彼の人生には私しかいなかったこと、申し訳ないと思うこと、とても寂しく辛かったこと、心の穴を埋めるのは難しかったこと、私にはできるだけ早く生まれ育った家庭環境から解放され自由に生きて幸せになってほしいと思っていること、制限があってあまり自由に連絡はできないけれど自分は元気でやっているから私にも元気でやっていってほしいと思っていること。

思うにこのときから私の錯乱していた精神はどんどん正常に戻っていった。夢枕に立った父の言動を信じるか、それを信じる方がさらに錯乱していると思うか、貴方はどちらですか?私は前者です。夢か現か幻か、人の魂は肉体から解放されると聡明になり物事がよく見えるらしい。もしくはこれが私の無意識の願望の反映だとしても、あの錯乱状態の片隅でここまで豊かな発想ができるとしたら、大きな救いになる。世界は自分の認識次第。罪悪感がある程度和らいだ私は、気が遠くなるほどの膨大な事務手続き、葬儀関連、相続関連をこなしていった。特に相続関連はほんとうに頭と胸が痛いことも多かったけど、そしてこれからもある程度は続いていくのだけれど、ひとつの山場は越えた気がする。死の恐怖は健全な喪失反応の範囲内だろう。

もちろん、今まで書いてきたことはほんの一部で、この裏には他にも様々な歴史や思惑や感情や行動があるし、いちばん劇的でやばいと思われる部分は書いていないのだけれど(悲劇性の強調が目的ではないから。目的はいつでもLa dolce vita)、これぐらいの要所を押さえておけば、ハイライトは網羅できた気がする。法的な理由で書くべきではないこともある。

公表するようなことではないと思う人もいるかもしれないけれど、ここを描写できないようでは、私はこれから歌っていけないし、書いていけない。私はいつだって自分の目から見えるほんとうのことと、ほんとうの嘘だけを描写してきた。この出来事は私という物語の根幹にあったものが一気に噴き出てきたようなもので、これを書くことは、私にとって、歌を歌ったり、曲を書いたりすることと同義なので、仕方ないと諦めていただくほかない。ごめんなさい!「世間からそういう目で見られないように隠すべきだ」という意見もあったけれど(世間って!)、私には「そういう目」というものがよくわからない。わからなすぎて発言者に質問してみたけれど、明確な答えは得られなかった。経験してみたらわかるかもしれない。気づかない可能性も大いにあるけれど…。とにかくこれが私が日々、一分一秒呼吸している人生だ。世界は美しく素敵なものに溢れていて、たぶん「そういう目」にかまっている暇はないと思う。

宗教によっては、自死は大きな罪とする場合もあるみたいだけれど、私がもし神様だったら、それぐらい追い込まれた魂が自分のところにやって来たら、とても大変だったね、って、ハグして、キスして、めちゃくちゃ優しくしてあげるけど、とヴォーカルデュオPisces SistersのパートナーのClaireは言った。

私の罪悪感が完全になくなったわけではないし、今でも恐ろしいヴィジョンに苛まれたり、こわい夢を見たり、自分の力だけで入眠することは難しいけれど、なんとなく、時が解決するような気はしている。

フェリーニとアレンの監督作品に加え私が参考にしている映画のひとつはロベルト・ベニーニ監督の『ライフイズビューティフル』で、ホロコーストという人間が考えられうる最大の悲惨な状況のひとつにおいても、楽しく幸せに生ききり、未来に希望を繋げ、繋がった未来からの視点が過去の解釈を変える、つまり時間は不可逆ではなく、未来から過去に遡ることができるのだ、という素晴らしいイタリア映画である。

私は私の魂の強さ、潔さ、美しさに感激して、今、泣きながらこの文章を書き終えた。自分とはいちばん身近な他人で、この他人を死ぬまでに幸せにしてあげたい。できることなら今すぐに。

父に、私を私にしてくれた全てに、今この瞬間にこのテキストを読んで私を支えてくれている貴方に、感謝します。

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