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芍薬

この夏、祖母を亡くしました。


SNS上にこのことを書こうか書くまいか、非常に悩みました。夏の間、何度も書こうとしたけど少し書いては号泣して進まず、時間を置いてNYに帰ってきてからまた向き合ってみてもダメでした。

しかし、祖母という人間が生きていたということを、そしてたった23年の人生の中ででも、これほどまで強く重くのしかかった感情を無かったことにはしたくないと思いキーボードを叩いています。

これを書かないと一生次、かけない気がして。


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危ないかもしれないという連絡を受け、私はコロナ禍真っ只中のNYから日本に帰国しました。テレビ電話であと3日で帰るからね!といえば、もうほとんど動けない指を3にして、必死に命の火を灯し続けてくれていました。


そして祖母は、私が実家に帰宅した26時間後に自宅で息を引き取りました。

祖母の息がどんどん小さくなっていく1時間の間、家族が手を握りながら「行かないで」じゃなくて「ありがとう」と伝え続けました。


人生の最期を「行かないで」と言われながら幕を閉じるよりも、ありがとうという言葉と感謝と愛で包んであげることの方が、よほど祖母にとっては嬉しいことなんじゃないかと。だから今まで言えなかっただけのありがとうを必死に家族で伝えました。

人の命の炎が小さく小さく、はかなく消えていく様を初めて目の当たりにしました。


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「順番に終わりが来るっていうのが一番ありがたいことやからね」とある人が言いました。

人は当たり前に歳を取り、新しい命があれば、お別れしなければいけない命もあります。その順番通りに命とお別れしていくというのはある意味幸せなことでとても自然なことです。

そんな当たり前なこと、頭ではわかっているんですが、心に納得させるのは随分と時間が必要です。

「お母さんって死ぬんだ」って母はつぶやきました。

そうだよね。お母さんにとってはばあばがお母さんだもんね。私が生まれる前の私の知らない2人の歴史が、もっともっとあるんだもんね。

自分の母が母を亡くした姿を見るのがとっても辛かったです。

私は祖母を亡くした今もなお、私が母を亡くすというのはあまりにも遠いことのように感じてしまいます。


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亡くなる数日前も、母が化粧水と乳液を塗ってあげると喜ぶような祖母でした。

美味しいものが大好きで、88歳一人暮らし、毎食きちんと料理をする祖母でした。

ローマ字でのタイピングを練習し、iPadの使い方を覚え、私にLINEを送ってくれるような祖母でした。 

歩けなくならないようにと一生懸命歩いて足腰を鍛え、私と私の彼に会いに、関西から一人で東京に来たこともありました。

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人からものを頂いたら美しい字ですぐにお手紙を書いて届けにいく、礼を尽くすことを忘れない祖母でした。

気遣いができ、上品で、無駄がなく、教養があり、おしゃれで。

お寺の老僧に「今まで生きてきた中でここまでの女性はみたことがない」と言われるような祖母でした。


そんな祖母でしたから、もしかしたら家族みんな、祖母のことを永遠だと勘違いしていたのかもしれません。


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「私たちだけになってしまった。」今はまだそんな感覚があります。

悲しみは小さくなるどころか日に日に現実味を帯びていくばかりで、3ヶ月が経とうとしている今も涙が止まりません。

後悔も悔しさも、考え出したらキリがありません。


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でも、それと同じぐらい、祖母の孫として生まれてきたことがどれほどの宝物かということを感じる日々です。

祖母という人間の近くで生きてこれたこと。学べたこと。育ててもらったこと。教えてもらったこと。

祖母に近づくことはまだまだできないけど、今私にできることは、祖母が自分の体で私たちに見せてきてくれたものを決して忘れずにいること。祖母の孫として恥じないように生きること。

そして今いる家族、大切な人たちを精一杯大切にすることです。


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祖母は6月、大好きな芍薬の花に囲まれて、幸せそうに旅立ちました。


人間の命は奇跡なんじゃないかと勘違いしてしまうほど最期は儚い。

でも痛みや全ての苦しみから解放された祖母の姿は、芍薬のように慎ましく、美しかった。凛としていました。

それは88年間、祖母が誠実に生きてきたからだと思います。

だからこそ美しく、みんなに惜しまれながら幸せに旅立てたんだと思います。


ばあばはね 一番大事な 宝物


ばあば、これからはずっと一緒です。

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