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ピーター・ドイグの絵とおばあちゃん

今年はこの写真のような紫色が好きだ。
この色のスカートも買ったしマニキュアも買ってしまった。だからピーター・ドイグのこの絵も出逢うべくして出逢ったのかも。

ピーター・ドイグの絵は現実世界と何処かの境界線に佇ずみ語りかけてくる。

図像の輪郭線は滲んでいたりブレていたり…それがトリガーとなり、どこか懐かしいノスタルジックな世界に連れてこられる。

この4連級中に90歳の祖母に会ってきた。理由は伏せるけど、あった時はまずまず元気そうで良かった。

だけど祖母の透明度が増してると感じた。体の何%かはあっちの世界と出入りしているように軽さを増していた。

(だからって直ぐに旅立つとか、いつどうこうというのは私にはわからない。その時は数年後かもしれないし)

「おばあちゃん」と呼びかけると必ずニコッとえもいわれぬ笑顔を向けてくれる。フワッと野に小さな花が綻ぶような有難い笑顔だ。

命がだんだん透明になっていくのは、ひとつの良い年の取り方ではないかと私は思っていて、実家からの戻りすがら、ピーター・ドイグ展に立ち寄り、絵を見ながらおばあちゃんのことをまた想った。

私が死にたいとかついこないだまで強く考えていたのは、とても重たく物体的な生々しい次元の話で、来るべくして来る場合は何かしら橋渡しが行われているのかもしれない。

ピーター・ドイグは生と死の境界というよりは『記憶と現実世界』を曖昧にさせていると思うけど、《境界線》というところで結びついたというか…。境界線をぼやかすものに触れると、在り方を考えさせられるよねぇ。

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