罪悪感を飲み下す、残念な一人時間
今家で一人、パソコンでこれを書いている。
状況を整理すると、旦那と子供が義実家に連泊中で、私はアレコレ理由をつけて毎日通っては帰宅しているのだ。
今日に至っては、一時間運転して行くのも嫌になって、仮病まで発動して自宅に留まってしまった。
サイテーな母親とは私の事だろうか。
言い訳はしない。私は一人の時間が欲しいのだ。
チャンスがあればいつだって一人時間を確保する手段を考えている。
サイテーな母親なんだと思う。
で、だ。
私が確保した一人時間をどんな充実した時間にしているかというと。
スペースで仲間とおしゃべりして
お酒を飲み散らかし
ブログを開いて駄文を綴って、消す
そう、ただただ遊んでいるだけなのだ。
※一応言っておくと仲間とのお喋りは私のかけがえない癒しなので、
これからもやめる気はないです。
私だって、せっかくの時間を充実させたいという思いはある。
そうできない原因はおそらく「罪悪感」だ。
この時間は「必要なもの」で
確保の仕方は「正当な方法」で
私はそれを「楽しむ権利がある」と
自分に言い聞かせ続けて。気が付いたら
溶けた時間の痕跡が身の回りにあふれている。
あぁ。またやってしまった。
過ぎた時間をとり戻すようにパソコンの前に座って
焦ってキーボードを叩いてみても、
お酒と眠気のせいでろくな言葉が浮かんでこない。
翌朝読んで、頭を抱えてファイル毎消すことは明白。
だから書いても書いても、寝るまでには無いことになっている。
解決策は一つ。
罪悪感を感じないで一人時間を確保する事。
罪悪感を感じないで一人時間を確保する事。
大切なことだからかな、無意識で2回書いてた。こっわ
その一人時間で何かを形に残すことができれば、きっと子供との日常も、
もやもやした気持ちを抱えずに過ごせるようになるはずだと思う。
それが簡単にできない事が問題なんだけれどねー
罪悪感を感じないために必要な要素は
「堂々と正直に申告して権利を獲得する事」
「持ちつ持たれつと言えるような平等感」
だと私は考えているんだけれど、大きく躓いている。
原因は「価値観の不一致」だ。
私は「一人になる時間」が欲しい人だ。
でも旦那はそうじゃないらしい。
「一人の時間はいらない」そうだ。
本音は知らない。
そう主張している以上はそういう前提で話が進む。
この関係性だと私が一方的に一人時間を要求する事になる。
お伺いを立てなくてはならないわけだ。
…でもそれはいい。
そういう関係は世の中いくらでもある。
ではなんでだろう。
おそらくだけど、私は
「役に立っていない」
その事実を誤魔化したいんだと思う。
よほどの理由をつけなければいけないと思うから、
嘘にも近い誇張をしたり。
…いや嘘もついている。
仮病まで使ってしまってはね。
旦那は5人兄弟。
つまり、義理の母は5人を育て上げた人。
仕方のないことだけれど経験値の差、許容量の差を毎回見せつけられる。
旦那もそれを間近で見て育ったんだと思うと、子供を任せる為によほどの理由が必要だと思ってしまっている。
価値観の古い会社で「世の中的には」正当な理由で有給休暇の申請をするような状況に似ている。
場合によっては、架空の親戚を何人か○してお葬式名目で申請するような・・・
それは言いすぎかな。
とにかく、誤魔化したり、時に嘘をついてまで得た自由には代償があって、心から楽しむ事を許してはもらえないのだ。
ちなみにこういった「ズルい」方法を最初からとっていたわけじゃない。
最初は、さぼる事が出来なくて、世界や夫が要求する「理想の母親」を目指して最大限に良い母であろうとしていた。
もちろん限界はあったけど。
子供が赤ちゃんだった頃は義実家に1週間くらい連泊していたり(これは義家族にとってもキツイ事だと思うので感謝している)、自分のケアは何一つできずボロボロの状態のまま必死に子育てをしてきた。
でも、少しずつ余裕が出てきて自由を味わうと、歯止めがかからない感覚に襲われた。
子供が大切なのと同じくらい、私は自分も大切なのだ。
子供は、子供だけで命を繋げないし、母の愛は必要だと知っている。
だから、与えてきたつもりだし、これからだって与え続けていく。
それと同じように、自分にも愛情を注ぎたいと思う事はいけない事なのだろうか。
この話は「誰かが悪い」という類の物じゃない。
価値観の問題なのだ。
すっきりとした解決は望めなくて、折り合いをつけていくしかないと頭では分かっている。
もうしばらくは罪悪感との戦いがきっと続く。
「時間をもらっている」のは事実だ。
だから、自分ですら許容できないレベルの「ズルイ」手段で得た自覚があるなら、うだうだと駄々をこねたりせず、何としてでもその時間を最大限に活かして、前へ進まなければならないのかもしれない。
こう考えてみると、急激に自分に腹が立ってきた。
この「残念な一人時間」は今日でいったんおしまいだ。
次に訪れるこういった時間は、つべこべ言わずちゃんと活用しなければならないと本気で思う。