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「観光」とどう付き合うか、お金とどう向き合うか

遊牧民の暮らしを見たいと遊牧民がゲルを張っているエリアに連れて行ってもらう。

彼らの素朴で静かな暮らしに突如現れた違う民族の人たちが訳の分からない言葉で話しながら歩いてくる。手には自分たちのお給料では到底買えないようなカメラを持って、彼らの日常を撮影する。

見世物じゃない、ぜったいに 。
彼らは確かに生きている。その日常を見世物にしているのは、私たちだ。

いつからか、旅先で写真を撮ることが嫌いになった。去年ラダックを訪れた時にはほとんど写真を撮らずに帰ってきた。カメラを向けるだけで、自分の目の前にある事や人がただの対象物(オブジェクト)になる。

写真を撮る私たちをみて、遊牧民の一族のお父さんが怒り始めた。なんて言っているのかわからないけれど、きっと自分の奥さんや娘の写真を撮るなと怒っているのだろう。

当然だ。自分に置き換えたらわかる。違う民族の訳の分からない言葉を話す人が突然自分たちの生活の場に現れて自分の家族を撮影し始めたら…

後から聞いたことだが、お父さんは撮影するなら金をよこせと言っていたらしい。お金を払えばお父さんの不快感はなくなるのか。絶対にそうではないはずだ。お金で解決できることではないのはお父さんもわかっていると信じたい。

もしお父さんが撮影料を観光客から取ってそれを収入源にしたら、いよいよ彼らの日常は本当の見世物になってしまう。

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ちょうど同じ時に、台湾からの観光客が10人ほど来ていた。

私は、台湾からの観光客と彼らのガイドを務めるラダック人と話した。

台湾から来た女性は、「ラダックは日差しが強いし、寒いし、道が悪いし、食べ物もまずいし、もう二度と来たくない!」とラダック人を前にラダックを頭ごなしに否定する。

なんて失礼なんだろうとムカムカしてる私をよそに、それを聞いていた、ラダッキーのガイドたちは、彼女の言い方を真似して笑いに変える。ジョークにできるラダッキーは強いと思った。

その後、ガイドと二人で話した。自分たちがガイドする観光客が、ラダックの人たちに失礼なことをしたり、言ったりするの嫌じゃないの?と聞いたら、
「まぁ、それはしょうがないと思うしかないよね、仕事だから、お金もらっているし、相手はお客さんだからこっちが合わせないとね。」

「お金が介されている関係だから?相手はお客さんだから?だからなんだ。」って私は思ってしまうけれど、そうやって割り切ってお仕事をして生活をしている彼を否定できない。

お金は交換の手段の1つである。ものとお金、サービスとお金が交換されるなかで経済がまわっている。でも、ラダックの素朴な暮らしの中にお金の価値観が組み込まれるとどうも不自然に映る。それは、本当はお金の物差しでは測れない、人の暮らしや文化、自然をお金で測ろうとしているからだ。

ますます観光業が栄えるラダックで、お金の物差しが果たす役割が大きくなってきているように感じる。

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