やるだけ。

自己憐憫に浸るつもりは一切ないけれど、今月は母の三回忌があります。
この2年間、母の死だけではなく、インストラクターとしての仕事経験を通じて、事実と感情を切り分けて受け入れる精度は、主観的尺度ながらも相当高まったように感じます。

とはいえ、母が自ら死を選ぶまでの不安定な心理状態を慮ると、今でも心が抉られるような痛みが走る。彼女の死から6日でインストラクター自主練習に戻ったペースは早すぎたのかもしれないけれど、それ以外何もできなかった。とにかく止まっていては何か崩れ落ちるような気がして、とにかく動き続けることが自分を保つ唯一の方法でした。

事実を受け入れるまで、タイムラグが起こる。事実に心が追いつかない。そして、生前の母から死後の母へ。何とか繋がりを作り出そうと、脳内で新しい関係性を構築しようと腐心する。納得できる在り方を模索するプロセスに一定の時間を要する。

インストラクターの仕事を最後の最後まで反対されていました。七転び八起きしながらも、亡き母に「ほら、大丈夫でしょう?」と安心させるためにも、私は誰に何を言われようと、否定されようとも、拒否されようとも、真っ直ぐに生きるし、もっと学び実践経験して、外の世界を知らないといけない。人の役に立つためには、大きくならないといけない。

在りたい姿に到達する中で、「誰かの人生をより良い方向にちょっとだけ変えるようなパワーやエネルギー体になりたいな、と。
たとえ困難が行く手を阻んだとしても「この人なら大丈夫」と期待を抱き、安心を感じられる人。そんな人こそが、周囲に希望の光を見せることができる存在。

仕事への向き合い方や精神力の持ち方は、周りの人に役立てる自分で在りたいという気持ち。そして、母への哀悼の意。それが9割。
そのためにやるべきことをやるだけです。まだまだですので、精進の身です。

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