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歴史考察|天皇すり替え説と呪詛

4月23日知床半島沖で発生した沈没事故の船の名称と同名の皇女との関連についてホロスコープとゲマトリアによるリーディング記事を書き進める上で、避けて通ることのできない問題が横たわっています。
それは、明治天皇すり替え説です。

これについて現時点での筆者の考察をまとめました。
この内容は、将来における筆者の意見を保証するものではありません。

睦仁親王は暗殺され、明治天皇として即位したのは別人であるという噂は、当時から現代に至るまで燻り続けています。

明治維新が、英国に拠点を置くグローバル勢力によるクーデターであるなら、これまでの日本の権力は一掃し、新たな間接統治体制を構築しないはずがありません。

明治天皇として即位した大室寅之祐は、南朝系の血筋であると謳われていますが、DNA鑑定がなかった時代の説であることは考慮すべきでしょう。
むしろ、グローバル勢力と血の契りを交わした者を使うための方便である可能性が高いのではないかと思います。

イエズス会が信長と接触した時期から、日本を乗っ取る計画は進行していたと見られます。
極東の島国までわざわざキリスト教の布教活動や人身売買のためだけに宣教師(工作員・奴隷商人)を送り込んでいたとは考え難いからです。

彼らの目的は何かというと、神秘主義的観点からは、生命の樹の秘儀を習得することです。

本拠地からは地球の反対側にあるこの小さな異教徒の地を乗っ取るために何世代もかけなければならない計画に見合うほどのこととはなんでしょうか。

それは、不老不死です。

世界中の億万長者や王族を見ればわかるように、老いと死は、富や権力によって回避できるわけではありません。

地上で活動するための乗り物としての肉体の有効期限が、彼らの悩みの種です。

死と再生を演じたキリストが特別な存在なのはそのためです。

聖書は、キリストによって、魂が去り朽ち果てるのを待つのみの肉体に、再び生命を宿せることを示しています。
この生命の不滅性は、DSにとって不都合な真実であるからこそ、文書によって「奇跡」と定義し、救世主という特別な存在としてキリストを祭り上げる必要がありました。
人間として生きるために常に付き纏うリスクとコストを管理する機構が宗教、そしてその下部組織である現代の医療や教育です。
これらの存在意義を保証するために、「奇跡」が文書化されました。
肉体がもたらす苦痛と死は、超越的存在によってのみ救済されうる。生命の不滅性はそれを経ることでしか獲得できないということにすれば、人間をまとめて支配できるからです。

DS側の勢力は、いったん物質に吹き込まれた生命を留め続けないと活動が中断してしまうと見られます。

再び地上で活動するためには、エネルギーを媒介する存在が必要となります。
新たな肉体を人間の女性に出産してもらうのが一般的な方法です。

この役割を担った女性器は、聖杯=ヴェシカ・パイシーズ(vesica piscis)と云われています。

ここで人間が聖俗に分類されます。
物質に生命を留める器が維持管理された領域によって区別された人間が聖なる種族です。

聖なる種族というカテゴリを作成し権威を与えるための根拠となるものが神話です。
血統という価値体系はここから構築されています。

天皇と国王の違いはそれに見ることができます。

国王はあくまで、人間同士の闘争を勝ち抜いた強者の子孫繁栄の結果に過ぎず、神などの超越的な権威とは無関係です。

皇族がその他の王族と区別される権威は、神話が実際に展開されている存在として位置付けられているからこそ発揮される神聖さに基づいています。

しかしその神聖さというのは、生命の不滅性の擬態でしかないのです。
生命の不滅性は、人間にもともと備わっている機能なのですが、宗教およびその下部組織である現代の医療や教育によって封じられました。

そこで、天皇制とはなんのためにあるのかという問いが生じます。

明治天皇すり替え説が本当ならば、万世一系に疑問符が付きます。
しかしそれでもなお公務や宮中祭祀は実行され、今の所日本は世界屈指の豊かさと平和を享受できる国であるのだから、極端な話、権威による機構が機能できていれば、聖なる種族としての神話など問題にならないと言えます。

つまり、その他の国王と何も変わりがないということになります。

他方、グローバル勢力によるクーデターとして、明治天皇のすり替えが行われたと考えると、皇族に備わる生来の神聖さは、聖書によって定義された奇跡と救世主のように、種々雑多な大勢の人間を一定方向に誘導する方便として有効だったと考えることができます。
ゼレンスキーのような道化を王に据えて傀儡政権を樹立することはせず、DSの息がかかった人物に天皇の権威を纏わせることで、国家としての体裁を整えることに成功したということです。

その権威に無条件に従う精神風土が醸成されたことで、大東亜戦争の特攻隊に顕著だった国家のための犠牲、生贄の文化が、現代でもなお生きているからこそ、明治天皇すり替え説は、権威による機構によって、天皇が神話から切り離されたことをアピールすることができます。

そこで、和宮についての考察に立ち返るのです。

和宮は、皇族と幕府の和合の象徴であり、幕末以前の日本の伝統と、明治維新以降の近代化された「にっぽん」との断絶をつなぐ存在なのだということです。

このエネルギーを封じるための呪詛が、ときどき悲劇的な事故や事件として、表面化すると考えられます。

この問題の中心にあるのは、聖なる種族は実在するのかということです。

神聖さというのは、その存在単独ではなし得ず、その存在に対する崇敬の念によって実現するものです。

しかし、聖なる種族でもない人間、要するに、生命の不滅性から隔てられた人間がそのふりをしても通用するのであれば、DSにとって皇族ほど便利な支配ツールはありません。

フィルターが、ひとつではなくいくつもかけられています。

明治維新から二度の大戦を経て、偽ユダヤによって構成されているDSのNWOに貢献する経済大国(マネーメーカー)として「にっぽん」を永続的に機能させる計画は、初期の調査段階で、見落としがあったため、ここへきて変更を迫られているように思われます。

この躓きに対応するのが、明治天皇すり替え説です。

では、聖なる種族はどこへ行ったのか?


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