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獅子の涙


夜中、目が覚めた。

再び眠りに就こうと目を閉じるとそこは真っ暗で。
しかし確かに奥行きのある不思議な世界が広がっていた。


ここ一年ほど、脳内に広がる私の思考について他人に伝えることの複雑さを痛感している。

私の脳内は常に騒がしく、
たとえば、疑問と仮説と否定とそれからetc…
による盛んな討論の現場だ。


結論を出すこと自体はそれほど重要では無い。

なぜなら私の頭の中の結論は、結論づけた瞬間、その時の様々な要素によって変則するものであり、
私の思考の荒波の中で定まった形のままあり続ける事がないのだ。

絶対は無く、完全も無い。

絶対と完全は、自分で定めることでしか存在し得ない。自分で定めることで存在し得る。

そう定義することとする。



「範囲」で捉える“私”という意識


“私”という意識は、私にとっては、一つには「範囲」である。
(その他、無自覚の“私”という意識の概念が、私にあるかもしれないが、無自覚であるならそれは“無い”も同然。自覚してはじめて存在することとする)

私も含め、多くの人が自覚する“私”の一つに、「肉体」がある。

更なる“私”について深く考える事がある人がいるとすれば、“私”という意識を、形でイメージする人もいるだろう。位置や図や、信号などの伝達物質のような移動し続ける意識イメージであることもあるかもしれない。

これらは、「自我」と呼ばれるものであると言えるかもしれない。

が、「自我」とはなんだろうか。


道しるべとなる灯台のようなもの


他人が‘自分らしく’とか、‘個性’と口にする時、‘自分’の範囲は、ぐっと狭まり、小さく収まった範囲に集約されるように感じる。


‘自分事’の意識が全体に及ぶ私にとっては、‘自分’というのは小さく一箇所に集約されておらず、普段は広い範囲に大きく及んでいる状態にある。


‘自分’という、集約された “より明確な範囲”は、個を認識せよと言わんばかりに個体を与えられ生をうけた私たちにとって、社会というその現実世界で生きる上で強力な道しるべとなるのだろう。


個というものを主張することより全体意識を大切にしてきた私は、みんなと同じように「誰よりも個性的な個」でもある。


私の‘私’という意識は、常に他の個を含む。


人間のみならず、動物、植物。
生命を持たないとされる物質たち。
空や雲や風も。

それらへの意識が地域や国、地球、
そして宇宙まで広がる。

宇宙と言っても、宇宙の正確な大きさはわからない。

宇宙とは一体なんなのか。宇宙の外側、宇宙を越えた向こうはどうなっているのか。理論に基づいて科学的に考えることは、ゲームや遊びのようで とても楽しい。


この世界は意識


私にとって、宇宙は実体ではない。

言葉でたとえるなら「意識」だ。
宇宙も、宇宙の外側も。

宇宙は広大で、今も膨張しているという。もしかしたら私たちが、宇宙について考えれば考えるほど、知ろうと研究すればするほど、膨張するのかもしれない。

そして耐えきれなくなった時、また何かが始まるのかもしれない。


だからこの宇宙の先には何があるのか、目を閉じたとき、私には私の世界が、見えた。

そして、この宇宙の外側には、「私」がある気がした。

宇宙を出たら、「私」がいる。
宇宙は、私の中にあるのだ。



大きな私の中にある、小さな宇宙という意識だったわけだ。

そう考えたら、その先には、この世界のように社会が広がってる気がした。私たちにとっては何の代わり映えもない極く当たり前のこの世界。宇宙に比べたらちっぽけだと思っていた等身大のこの私が、宇宙よりも大きな世界にいるのかもしれないと考えたら。

今、私は、私の中にある宇宙の奥の奥の奥の方で存在する小さな小さな小さな自我なのだ。

この大きな大きな大きな大ーきな宇宙が
私の中に全部存在している。


私の中いっぱいに広がっている。



私の中に宇宙がある

さて、私の‘私’という意識は、範囲であり、多くのものを一度に含んでいる。


自分の中に多くの意識を取り込み、全力であろうとすることについて、私は、私に誇りを持っている。

これが私らしさである。

私の個の範囲なのだ。



私は今後も、こんな自分と
楽しく共存していきたい



私のファンタジーにお付き合いくださいまして
ありがとうございました。




はてさて。



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