自己肯定感的なアレコレの話を書いてみるテスト
Q.なんでそんな自己肯定感高いの?
っていうような場面が何度かあったので考えてみました。
A.やることやってるから
これかなって思いました……。
詳細を書いたり書かなかったりしていくのでよかったら見てねの気持ちって話
●「やること」って何?って話
やることやってるから自己肯定感がある、っていう結論を述べたんですけど、じゃあやることって何?ってなりますよね。
お金を稼ぎましょうねとか技術を高めましょうねというのが普通やることだと思うんですけど、自分にとってのやらなきゃいけないことっていうのが違くて……
「人として大切な事は何か」を考える事がやらなきゃいけないことなんですよね。
人として大切なことなんて個人によって違うし、答えなんてないし、出したとこで他の人にとっては大切じゃなかったりするんだから意味ないじゃ~ん!って話ではあるんですけど、一番大切な要素があって……
「自分が生きて良く上でのルールが決まっている事」が大切なんですよね。
人間には、生きて良く上で必ず守らなくちゃいけないことがあります。
睡眠、食事、達成感、所属感、楽しさ、自由、選択、勇気、貢献……これら全てを達成できる生き方をしないと、人間は不幸になると思っているんですけど、「これら全部を達成できるルール」を作らないといけないと思うわけなんですね。
これは一文で表せるルールじゃなくて、法律みたいにいくつも条項があって、どれが優先されるとか、どの条文はどんな解釈をする……とか複雑なものになるんですけど……
例えば。
生きて良く上でのルールを「他者に尽くす」とするじゃないですか。
そしたら簡単に破綻するのが目に見えてきますよね。
「他者に尽くす」の中には睡眠も食事も入ってこない、自分が楽しいかどうかも勘定に入っていない、だから破綻するんですよね。
逆に「自分の思った事を全て表に出していく!」とする。
すると、どこかに所属しているという感覚は感じられない状況になるかもしれないし、他者に貢献しないかもしれないし、達成感も得られないかもしれない。
このルールの設定が間違っていると、人生は”無意味な失敗”をして何の糧にもならない無為な経験が生まれてしまうんだと思うんですよね。
例えば病気になってしまうとか、大けがしてしまうとか。
それが避けられないものだったり、避けようとしたけど避けきれなかったものなら決して意味がないとは言わないんですけども、ここでいう意味がない病気とか怪我っていうのは「どう見ても病気/ケガにならない方法が目の前にあるのに自分から突っ込んでいった結果なったもの」なんですよね。
食事をおろそかにすればそりゃあ病気になるだろうし、睡眠もそう。そのほかのモノだってそう。
社会性のある生き物なのに社会性を放棄して生きていればそりゃあ不健康にもなりますよねって話。
なので健やかに生きていくためにも、この生きていく上でのルールの設定が大切で、ルールの設定のためには人として大切なことを考えるのが大切で……人として大切なことを考える、というのが達成できていれば幸せになれるよね~という話です。
そして、「〇〇が出来ていれば幸せになれる」という仮説と、「自分自身が本当に幸せだったかな~?」という感覚との答え合わせが上手くいっているので比較的「自分やるじゃーん!」となっているんだと思います。
●「やることやってるのに自己肯定感あがらないんですけど😡」って幻聴が聞こえたので……
A.やることやっていないから上がらないのではないでしょうか……と思いました
詳しく書きます。
「一人の大人してやるべきことをやっている」っていうことと「自己肯定感を上げるためにやらなければいけないことをやっているか」は別だよね~って話なんだと思います。
例えば自己肯定感を上げるためには「自分が自分の期待に応えられる存在だと認識すること」が大切らしいんですけど(自分との約束を守ってあげようとかいう言い方でよく出てくる話)、仕事してる時ってそういうことまで考えていない人も居ますよね。
やらなきゃいけないからやるとか、なんでこんなことしなくちゃいけないんだろうって思いながらやるとか。
「自分はこのくらいの事ならできる。だって昔はこんなことが出来なかった人間だったけど、今はこんなことが出来るようになったから」みたいなことを考えてお仕事してる人は充実してるんじゃないかなぁと想像しました。
他にも「他人と比べない、過去の自分と比べる」とか。
「自分の実力を過信せず、卑下せず、ありのまま受け止めて認識する」とか。
「目標に届いたかどうかと、自分がどれだけ積み上げてきたかは別物として考える」とか。
「自分がやりたいと思ったことを叶えてあげる」とか。
「毎日少しだけ全く知らなかったことを勉強する」とか。
「自分のことを知ってあげる」とか。
以上のことを気を付けてあげるのが自己肯定感を高めるために必要なことらしいし、事実じぶんの気持ちを心地よくしてくれてる事柄なんですけど、そういう意識を持たないで生きていたらそりゃあ自己肯定感みたいなモノは変わらないよね~という気持ちです。
●「じゃあもうあなたはそこが完成形で、そこから一歩も進歩しないんだ。そうなんだ。お母さんはもう成長もしないで年老いてしわくちゃになっていくばっかりで4んじゃえばいいんだ!」と幻聴が聞こえたので……
A.完成って思ってないから4なないでね、ママ
詳しく書きます。
「今の自分を肯定する」ことと「過去・現在・未来を含めた自分という存在そのものを肯定する」ことは違うと思っていて、自分がしてるのは「過去・現在・未来を含めた自分という存在そのものを肯定する」←こっちなんですよね。
過去の自分の事を思えば、「もっとこうしておけばよかった」とか「こんな風に選択していれば人生が違ったかもしれない」ということがたくさんあると思うんですけど、自分は「それがないと今の自分(=過去の事を後悔出来るほどモノゴトの分別がついている自分)になれなかった」んだと思うんですよね。
過去の失敗は、結局いつか経験しないといけなかったことだと思うんですよ。
今だって思います、別に小さなころからシャワーの温度が熱いなら下げればいいし、ハンバーグはデミグラスソースをかけないで食べたっていいし、トンカツはソースじゃなくて塩で食べたって良いし、チャーハンは味がしないなら塩をかけて食べたっていいんです。塩さえかけていれば牛乳で流し込んで必死に食べた挙句「そんな必死に飲み込まないと食べれないくらいまずいのか?ん?」なんて怒られることもなかった。可哀相。まずいよ。作り直せへたくそ。
そりゃあ親や周りの大人が言うように正解の道を選んでいれば「ああ良かった」と思える時があるかもしれないけど、親や周りの大人が間違ってるかどうかなんてわからないわけですよね。いつになったら判断できるか分からない。
例え過去の自分に、今の自分が「チャーハンは塩かけて食べたっていいんだぞ」と言ったってそれがどこまで正しいかどうかなんて当時の自分には分からない。チャーハンは塩をかけておいしく食べれたって、他の料理にまで何でもかんでも味付けをし始めて、逆にそれで怒られてツライ思いをすることになるかもしれない。
だから結局、自分で選択して、考えて、反省して、最終的に「一体なにが、どういう理屈で、なんのために、こうしなくてはいけないのか」を理解しない事には正解が分からないということだと思うんですよね。
なので今まで失敗してきた自分、今仮説を立てて検証している途中の自分、きっと未来では検証を終えて次の仮設を立てて検証してくれている自分に感謝しているし、「それが正解なんだぞ」とどの時間の自分に向かっても言っています。
だってしょうがないですよね、自分はそういう失敗をしないと理解できない人格に生まれ落ちたんだから。
「自分がもっと〇〇だったら」も「自分がもっと××さんみたいだったら」も考えるのはもっとずっと後の4ぬ直前で良くて、今はそれよりも「自分っていったいどんな人間なのか」「何が必要なのか」「何が出来て何が出来ないのか」「何が好きで何が嫌いなのか」「どうしたら心地いいのか」「どうしたら心地悪いのか」などなどを知ってあげる方が先だなって思います。
逆に、「自分は自分の事をまだまだ知っていける」ということを知らない人ほど、自分自身に対して全て分かったつもりになっているし、全て分かったつもりになっているから「自分は変われない」と思い込んでいたり「自分は他の人と比べて〇〇」と思っていたりするなぁと思います。
きっとそんなことない。知らない自分はいっぱい居るはずです。
スカイダイビングした時、自分はどんな反応するか知ってますか?
お風呂でサイリウム開けてシャボン玉飛ばしたときは?
空地で側転した時は?
すっごい高いお寿司と、すっごい安いお寿司を並べて食べ比べたときは?
ミスドのオールドファッションを何個まで連続で食べられるかは?
もっともっと、知らない自分はいっぱい居るはず。それら全部を知ってから、自分と言う奴はこういう奴なんだと判断したって良いと思っています。
そこの、「自分がどういう奴なのか」っていうのを知っている範囲が、少しだけ広めだから自分は自分のことをヨシと思えるのかなーと思いました。
自分の事を知らないと諦めもつかないですもんね。
もっとできるはずだ、とか。同じ年齢でもあの人はこういうことが出来る、だとかね。
そんなことない。もっと出来るとかはありません。1やったら1しかできない人なの。自分はそういう人なの。それ以上でもそれ以下でもない。それが悪いことでも良いことでもない。ただ自分はそうなの。その後でどうなりたいとか、どうしていきたいとか、この目標を達成したいとか考えればいいんだから。
逆に1やっただけで、0.5やった時の自分や2やったときの自分のことを知ったかぶりするのも良くないと思います。
100m15秒で走れたって、100km同じ速度で走れるわけないですよね。
かといって1万km移動しようと思った時にはもっと別の知恵を働かせて動けるかもしれない。
1cm走をやった時には意外にいい結果が出せるかもしれない。
何かに取り組む時っていうのはそういうもので、100の力を出せば必ず100の結果が返ってくるわけじゃなかったりすると思います。気張るだけがイイ結果を出すって話じゃない。ムリするのが結果を出すための方法って訳じゃない。自分にとってはテキトーでも、他人にとっては受け取りやすい事だってあるんです。シャーロック・ホームズとかがそう。手抜きで書いたら大大大ベストセラーになっちゃったらしいです、可哀相。本当は民族大移動の歴史を面白おかしく書きたい方だったらしいです可哀相。
なので知ったかぶりせず、ちょっとずつちょっとずつ自分事を知って、「自分ってこうかもな~?」という仮説を立てて、検証して、「検証してえらかったねぇ」と自分を褒めて、また繰り返していくのが最も自己肯定感を高める方法なんだと思います。
結論はこれで合っていますか?わかりません。書きたいので書きました。
以上となります……ありがとうございました
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