不吉

最近はあいつは受験成功するだろう、あいつは...というのが分かるようになってきた。逆は、あいつは受からないだろうというのは判断できない。というよりしようと思わないといったところか。
私はどうだろう、と思うことがある。わからない。実をいえば、こんな生活をしていれば受からないと思っているのだが、直視してしまうのが辛くて、判断を先送りにしている。正直いって私は第一志望の大学に受からないだろう。適当な国立も怪しい。これは、大学受験を目前にして弱気になっているのではなく、自堕落な生活とか、実際の模試などの成績をもとにした推測だ。直感でもある。辛いのは、落ちると分かっていても努力自体は続ける必要があることだ。最悪の結果を避けるために。別に第一志望に落ちたからといって私が死ぬ理由にはならない大学に受かれば万々歳な部分はある。とはいってもだ。理想と現実の差。それが辛いのだ。理想と現実の残酷なほどの差、それは私に、私たちに死を選択するハードルを下げる一因には、判断を誤らせる理由になりえる。
後悔とか、諦観とかそういうものも辛い。後悔も諦めも全部終わってからくればいいのに。中途の後悔が私を苦しめる。そこでえいや!と頑張れない人間であることも辛い。私は頭がいい(大学に行けるか悩む程度に)から、こういう自虐的な思考に意味がないことも見抜いてしまってそれが辛い。
これから待ち受ける因果応報をより軽くするために努力できるほど勇気や勤勉さが足りない。

最近また短歌をつくっている。
短歌に何かをつくりだせることの喜びを少し感じていて、それが好きだ。
ただ何がいい短歌なのかは相変わらずわからない。何においても目が悪い。審美眼というか。
スポーツでも何でも上達する人は善し悪しを見分けることに長けている。私はそれがずっとできない。そういう星のもと生きていると思っているし、特に変わるための努力もしていないから文句は言わない。 さようなら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?