見出し画像

インターネット課税論

初めてインターネットでコンピューター同士が繋がったのは、53年前の1969年のこと。調べてみると、日本におけるインターネットの始まりは1984年だそうだ。これまで人々の暮らしを支えてきたインターネットは今、転換期を迎えているのかもしれない。コミュニケーションツールとして便利なSNSでは、なりすましやデマ、誹謗中傷などの問題が脅威となっている。自宅に居ながら買い物ができるショッピングサイトでは代金を入力しても商品が届かないケースや個人情報の流出も社会課題となっている。企業も個人もネット社会。存在感を示すためには、情報発信を途絶えさせないことが通例となっている。僕はこの通例こそが、様々な問題の引き金となっているのではないかと推察している。「発信する者」と「発信しない者」では「発信する者」の方が圧倒的に存在感は大きくなる。なぜなら、インターネットの性質上、「発信しない者」は「存在しない者」として扱われてしまうからだ。反対に「発信する者」はインターネット上にテキストという名の「声」が残るため、拡散されたり、保存されたりで存在感は大きくなる。仮にネットリテラシーの低い利用者が発信する「声」は社会にネガティブな印象を与えるリスクが発生する。だからこそ、利用者に責任感を感じてもらう為にもインターネットの発信に応じて課税をすべきではないかと提言したい。企業や個人で視聴者の関心を惹くことが直接的な利益に繋がる為、演出として意見の対立を起こす内容や尖った内容を狙って発信するケースも増えてしまったと思う。メディアの権威は薄れ、極端に多様性が叫ばれるようになり、誰でも気軽に発信ができる時代において、「事実」が分かりづらくなっていることに注目する必要があると思う。1919年に制定された「自動車取締令」のように、ものごとの始まりは危険が伴う為、規制は必要だ。誰でも車に乗れたら、安心して街を歩くことはできない。僕はインターネットにも同じことが言えてしまうと思う。確かにインターネットは車の運転とは違い、相手に怪我を負わせる心配はないが、使い方を間違えると精神的な苦痛を与えてしまう可能性はある。もちろん道具は使い方を間違えると何でも凶器になる為、インターネットだけが悪者だと主張する内容ではない。現代の社会はインターネットの普及とともに発展し、企業の成長もインターネットの存在なしには語れない。次の時代はインターネットでの匿名性を廃止し、「誰が、いつ、何を」伝えたのかを明確にするという前提のもと、発信できる回数に対して制限を設ける必要もあると考える。企業のインターネットを利用した広告や発信に対しても、数を減らして質を上げることに注力することが、社会全体としてのサービス向上に繋がってくると考察している。なぜなら、現代社会は企業間の競争が過度な広告勝負という状況に陥っており、大企業はともかくとしても、中小企業や個人事業主は事業のサービス向上よりも発信力や広告に時間を割くようになっている。この状況は、社会全体としてもマイナスになってしまうのではないかと懸念する。結論としてインターネットに課税することで、必要な発信しか生まれなくなり、有益な情報だけに目を通せて、可処分時間にも余裕が生まれてくると想定している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?