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旧友

「あの頃の友達は今、どこで何をしているのだろうか」。ふとした時に、この疑問が浮かんでくる。10年前は毎日、顔を合わせていた友達と今は全く会えていない。これは普通のことなのか、寂しいことなのか。ある人は、人生はステージが変化していくものだから関わる人が変わっていくことは必然だと主張する。そして、ある人は、友達は一生の宝物だと主張する。果たして正解はどちらなのか。僕は怠惰な人間なので関係性を継続させていくことは苦手だ。だから、僕は人生の段階において、交友関係を変えてしまうタイプだと認識している。妹は多くの友達に囲まれていたことも影響し、母親からは友達をつくりなさいと言われ続けていた。僕の周りには常に1人、2人程度の友達しかいなかったが、特に寂しい思いをしている訳でもなかった。 なぜ、人は華やかで賑やかな人間関係に強い憧れを抱くのだろうか。それは、見栄という欲求が人のなかに潜在的に存在しているからだと考察する。 その思考自体はディスコに集まって踊ったりした、バブル時代の名残なのかもしれないとも思った。正直、僕は、この「友達100人理論」には全く理解が出来ない。しかし、交友関係にはある程度の幅が必要だとも思う。話は変わるが、最近、旧友に連絡するタイミングがあった。昨年の7月30日にLINEで、「お誕生日おめでとう!」という内容が送られてきたことがキッカケだ。旧友の誕生日は7月29日で1日違いの中学校の同級生。だから、僕は旧友の誕生日を祝うことを忘れ、次の日、自分の誕生日を祝ってもらったことを意味する。その事実が悔しくて、薄情な自分に少しだけイラついた。2021年7月30日に2022年7月29日のカレンダーに「旧友の誕生日」とメモをした。そして遂に昨日、その日がやってきた。2022年7月29日23時46分に「お誕生日おめでとう!」とLINEでメッセージを送信すると、2022年7月30日0時1分に「お誕生日おめでとう!」と返信が返ってきた。僕はその時、「これだよ、これ!」と心の中で叫んだ。中学校、高校と同級生だった旧友と毎年、あたりまえのように行っていた、この儀式は知らないうちに消えてしまっていた。大人になると、何かと理由をつけたがる。何をするのにも理由と約束が必要で、全てに対して台本のような筋書きが存在する。そこには思春期の頃の直観的に行動する「衝動」みたいなものはない。大人になると、仕事や家庭などの環境を言い訳にして、何かに挑戦する意欲を消してしまっているのではないか。僕も環境の変化を理由にして、旧友との関係を疎遠にしてしまっていた。僕も最近になって心得ていることがある。それは、自分の心のなかに固定概念はないか、疑いを持ち続けること。「デートに誘うかどうか迷うには、人生が短すぎる。」という名言が存在するように、小利口にならずに試してみることを心得ていきたいと思う。それが、人間関係において悔いのない人生を送るための秘訣だとも考察している。2023年7月29日も、旧友に「お誕生日おめでとう!」とメッセージを送りたいと思う。その前に飲みにでも誘ってみようと思う。
 
 
 
 

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