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豚に真珠ではなく豚ですら不在

日本の各地を旅していると目を惹きつける特産品や工藝品と出会う。その土地に根付きながら人々の暮らしに寄り添う特産品、地域の個性を色濃く表現する工藝品は長い歴史のなかで磨かれてきた賜物だ。そんな特産品や工藝品を発信していきたいと考える一方で、その発信に限界を感じてしまうことがある。なぜなら現代人は多忙な日常生活を送っており、特産品や工藝品と向き合う余裕、時間が極端に少ないからだ。例えば、日本酒。私は酒販店を運営しており、日頃から痛感していることなのだが日本酒や焼酎はアルコール度数が高すぎる。出社は早く、夜遅くに帰宅する人にとって、酔うという行為は確実に暮らしの妨げになっている。それ故、現代人はアルコール度数が数%程度のビールやリキュールを選ぶ傾向にある。例えば、土鍋。優れた土鍋も現代人の日常生活のなかでは炊飯器に到底敵わないだろう。炊飯器は土鍋のように火をかけたり、消したりする作業はなく、翌日まで保温してくれる機能まで搭載されている。決められた分量の水を投入したら、ふっくらとした米が炊き上がる。例えば、箒。箒は電力を必要としない清掃を行う道具なのだが、ロボット掃除機の便利さには敵わない。ロボット掃除機は自宅を留守にしていても自動で掃除を行ってくれるからだ。「家の主」が帰宅する頃には部屋が綺麗になっているのだから完璧だ。例えば、お味噌汁。一汁三菜は日本の伝統的な食文化で和食の基本的な献立構成だ。お味噌汁は優れた栄養食であり、日本が誇る健康食の代表格だ。しかし、ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食 日本人の伝統的な食文化」はコンビニのサンドイッチとコーヒー。時短での食事という点では到底敵わないだろう。私が何を言いたいかというと、文化的な背景を持つ特産品や工藝品などは「時間」や「空間」という「間」のなかで構成されており、最適化や効率とは真逆の方向性に位置する。つまり「間」という概念が消えゆく、時間の流れが速い現代社会のなかには特産品や工藝品の居場所がない。加えて、都会の日常では無個性で便利な道具や食料品が選ばれやすい。なぜなら、現代人の日常は平準化されており、無個性な空間のなかに特産品が入ると不一致を引き起こしてしまうからだ。私は特産品や工藝品の魅力を発信していく身として、この現状はあまりに悲しいが、それは受け入れるしかない。しかし、「不便」という言葉だけで片付けてしまってよいのだろうか?私は特産品や工藝品の魅力を発信する前に現代人の暮らしを再定義する必要があると思う。大げさな表現をすると、人生の断捨離を行うこと。無駄な時間を減らすことで丁寧な暮らしが実現できるのだとしたら、それは幸せことだと思う。まずは自らが余裕を持った暮らしを実践すること。そして、周囲の人とも余裕を持って接していくこと。少しずつ「余裕」が生み出す豊かさが社会全体に浸透していけば特産品や工藝品などが生み出す「美しさ」も受け入れられてくるのではないか。自分と常に向き合っていくことで余裕は生み出せる。時間や空間という「間」は無駄を削ぎ落した洗練美が創り出す。日本という穏やかで恵まれた国で、豊かさを取り戻す鍵は、各地の「特産品」や「工藝品」のなかに眠っているのだろう。

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