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人々の暮らしに寄り添ってくれる酒

島根県出雲市の板倉酒造は神秘的な酒を醸すことで知られる。「無窮天穏」は体の隅々までに染み渡るような安らぎと愛情を授けてくれる。その感覚は世の中には神様が存在していて、不思議な力を授けてくれているのではないかと信じたくなるほどだ。酒場であれば隣にいる常連客と夜が明けるまで語り明かしたくなり、自宅ならば恋人に普段は照れくさくて言えない感謝の言葉を伝えたくなる。神様が人と人とを繋げてくれるのが「無窮天穏」なのだ。出雲の象徴ともいえる出雲大社が鎮座する地で、板倉酒造はそんな人と人とが繋がるために酒を造ることが最も重要な役割であると考えているそうだ。私は希薄化や孤独化が進行していく社会のなかで、人々が忘れかけている感覚を取り戻せることを願いながら、酒造りを行っている姿に心から感動した。遠い昔、酒は神様と人々が交信する役割を担っていたと聞く。今よりも食糧は安定しておらず、居住環境も整っていなかった頃、人々は神様に五穀豊穣や雨乞いを願っていたそうだ。人は酒に酔うとトランス状態になり、神様との交信が許された。別人の魂が入り込んだり、魂が抜けたかのようになったり、まるで神懸かったかのような五感の鋭敏さや第六感の鋭さを発揮したり、忘我・恍惚の状態に浸ったり。今よりも昔は酔うということが美しいことだと認識されていたのだと想像する。そして、詳しいことは分からないが、酒は飢餓や天災という恐怖を忘れるための手段、工夫であったのだろう。祭りを例に挙げると、神様と人が繋がる儀式でありながらも、人と人が繋がることを確認し合う行事だったことも分かってくる。他者と一体化することで同一性を保っていたのだと想像する。要するに、「自分は一人ではない。」と言い聞かせることで、その恐怖から逃れていたのだ。それはまるで「赤信号みんなで渡れば怖くない」のように。酒に酔うことは神様と交信する手段の他に、恐怖を忘れ、人との一体化を助ける行為であったのだ。それは今の世界でも忘れてはいけない大切なことだと思う。1300年前の話を遠い
昔の別世界の話にしてしまうのではなく、「時」という概念は脈々と受け継がれ、繋がっていることを意識することは重要なことである。「自分は自分、他人は他人」という感覚を抱くこと、個人の経験や感覚は他人との共有が困難であると塞いでしまうと、人は不安と闘うことから逃れられない。結局、人は孤独では生きていけないのだから。実存的孤立を解消するために昔から酒や祭りが光と闇の部分の全てを包容し、明日への活力に変換したのだと思う。私は有神論者でもないし、無神論者でもないのだが、人と人とが暮らしのなかで繋がりをつくるための象徴として、神様がいてくれたほうが争いごとは減るような気もしている。板倉酒造もまた、「最高の御神酒」を奉納することを目指すことで一体感を醸し出し、幸せに暮らしていく決意を誓っている。もし、出雲国の神様たちが下戸だったとしても、板倉酒造は最高の御神酒を愚直に追求してほしい。「無窮天穏」は全てを包容してくれる存在として、どのような暮らしのなかでも居場所を探してくれる。細かいことなんて気にしなくてもいい。今夜、私は「無窮天穏」の燗酒にギョーザを合わせてみよう。天が穏やかであれば困窮することは無いのだから。その未来と世界が平和であることを願って。さあ、皆で乾杯だ。

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