「患者に人ととして接する」への違和感
あっという間にゴールデンウィーク最終日となりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか?私は今年は4連休をとることが出来たので、年度末、年度初めのダメージをやや回復できそうです。4月から療法士として働き始めた方たちも少しは休めていますでしょうか?
4月は新人研修を実施していた職場も多いのではないでしょうか?私の職場も新人研修がありましたが、その中で少し違和感を感じたことがあったので、この記事を書き始めました。
「患者に人として接しましょう」
新人研修の中で「患者に人として接しましょう」という話があったようで、私としては違和感がありました。
「そんな意識しないと患者を人としてとらえることが出来ないのかな」というちょっとした疑問でもあり、そこまで言わないと患者を人として認識できないのが医療の現場なのかというちょっとした狂気みたいなものを感じました。
しかしながら、現場としては、患者に対して怒ったり、自分の考えを押し付けてしまうような場面、強く言えば患者を支配しようとする場面を見ることがあります。
患者に対して支配的にならないこと、これがこの「患者に人として接しましょう」につながるような気がするのですが…どうでしょうか?
支援者のもつ権力
自分たちが持っている専門的な知識・技術に対してクライエントが同意をしない、もしくは協力的ではない場合に「これをすれば良くなるのに何でしないんだ」「あの患者はやる気がない」と支援者側は言ったりするわけですが、まさしく暴力性だと思うわけです。
そして、専門性が高まったり分化していくほど、支援者の方向性や価値感によって「あるべきクライエント像」が決まっていってしまいます。これは時折、支援者が自分はどんな文化を持った専門職で、どんな文化をもった施設で働いているのかを内省しないと「無自覚な権力」となってしまうかなと思います。あるべきクライエント像にクライエントがなるように無自覚に支配していくことが臨床になってしまうからです。
SDMなどクライエントと支援者が対等な立場で話し合うといった意思決定の形が推奨されることが多くなってきていますが、本当に対等かはよく考える必要がありそうです。
支援者はどのように権力を持っていくのか
支援者の専門的な知識が増えれば増えるほど、専門性が高まれば高まるほど、自分の専門性に疑問を持たなくなってくる感覚があります。実はこの「患者に人として接しましょう」は、新人よりも、中堅層がいまいちど自分の認識や価値観を確かめるために必要な言葉なのかもしれないと思ったり…。
支援者においても無意識にクライエントを支配している仕組みに気づいたり、そのような教育・文化の中で自分が過ごしてきたということについて自覚的になる必要があるかもしれません。
守秘義務の問題もあり、外では語りにくい支援者のこういったトラウマティックな経験などをどのように取り扱っていくかの問題もある気がします。私は何かあると同僚とかに話すのですが、それは私が職場にそういうことを話せる人がいるからできるのであって、そうじゃないこともあると思います。職場の心理的な安全性を高めてそのような話ができる同僚がいる環境にするとか、支援者を支援する(カウンセリングだったり)体制を整えるとかそういったことは大事だと思います。
素人性を高める知識
この「患者に人として接する」はなんか「寄り添う」「患者の気持ちを考えて」くらいの感じで伝えられることが多いですが、それって結構難しいし、各々が感覚でやっている部分があると思います。
専門性とは逆の素人性を高めるために「対話」や「ナラティブ・アプローチ」のような要するにキュアというよりはケアの領域が見直されているのかなと思っております。
さて、迷走してよくわからなくなってきましたが…。最終的には「患者に人として接する」という言葉を伝えるよりは、ケアのあり方や、それにともなう視点を伝えた方が良いのでは?という気持ちが私の中にあったようです。
とか言いつつ、なんだかんだ私は技術よりも「気持ち」の人かもしれないということでした。
言いたいことはよくわからなかったですが、自分が最近読んでいたもののまとめも兼ねて書いてみました!ではまた。
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