丹波の国の由来、大国主命と丹の湖伝承
湖伝承
亀岡盆地は太古は湖であったと言われ、それに基づく伝承が各地に残っている。
地質学的見地
地質学的には、鮮新世・更新世頃まで標高280mほどの湖であったことが確認されており[1]、周辺の山体には一部平らになっている段丘地形も見られる[1]。また、地形と地質から、その後も何度か湖や沼地であった時代が繰り返されたものと考えられている[1]。現在においても、盆地は保津峡がひと度塞がれば湖に戻る地形をなしている。ただし、当地にいつまで湖が残っていたかは定かではない。
考古学的見地
考古学的には、口丹波最大の千歳車塚古墳(亀岡市千歳町千歳)を始めとして大小多くの古墳や遺跡が盆地内に残っており、周辺の山に沿った高所に分布している。また、それらは概ね標高100-200mの高台に位置しており、標高100mの水面を持つ湖が示唆される[2](現在の亀岡市街地で標高は約100m)。
各地に残る伝承(蹴裂伝説)
保津峡入り口(開削伝承地)
左岸に請田神社、右岸を走る嵯峨野線の奥に桑田神社が鎮座。
丹の池(大井神社境内)
湖の乾き残りという。
盆地内に残る伝承によると、当地には赤土の泥湖であったという「丹の湖・丹の海(にのうみ)」があったという。また、これに基づき国名の「丹波」も、「風が吹くと湖に丹色(朱色)の波が立った様子」を表したとする説もある[3]。ただしこの国名の由来は一般にはあまり認められず、別説が有力視される[4]。
この湖に関して、出雲神話で有名な大国主命が保津峡(古くは浮田峡)を開削、湖の水を抜き盆地を開拓したという伝承(蹴裂伝説)が、盆地周辺の神社数社で伝わっている。しかしながら有力な文献はほとんど残っておらず、各社の社伝や口伝に拠る所が大きい。そのため、地元の郷土史でもほとんど取り上げておらず[5]、伝承自体も各社で異なっているために統一的な解釈は出ていない。
関係する伝承を有する神社は以下の通り。
出雲大神宮 (亀岡市千歳町千歳)
名神大社、丹波国一宮。開削の主役である大国主命と、その妻神・三穂津姫命を祀る。地名「保津」は三穂津姫命に由来するともいう[6]。
徳神社(のり-) (亀岡市東別院町神原)
鎮座地の「神原」において神々が談合を行ったとされる[7]。なお、談合は黒柄岳(亀岡市・高槻市境)で行われたという伝承もある[8]。この談合に集まった神々は8柱ともいう[8]。
樫船神社(かしふね-) (大阪府高槻市田能)
当地で開削を行う際に湖に浮かべる樫の舟が作られたとされる[9]。
桑田神社 (亀岡市篠町山本)
式内社。保津峡入り口に鎮座。開削を始めた地とされ、祭神の大山咋神が開削に使った鋤と帯びていた短剣を祀ったとされる[10]。大山咋神が庵を結んでいたとも[11]、「丹波」の語源の1つ「田庭」は、当地の古い地名であるともいう[11]。
請田神社(うけた-) (亀岡市保津町立岩)
式内社論社。保津峡入り口、桑田神社の川向うに鎮座。鍬を受けた(うけた = 請田)地とされる[12]。工事費用を「請け負った」ことに由来するともいう[13]。
餅籠神社(もちかご-、持籠-・篭持-(かごもち)とも) (所在不明)
当地から籠で土砂を運んだとされる[13]。伝承上の神社で、所在は明らかでない。
鍬山神社(くわやま-) (亀岡市上矢田町)
式内社。開削に使った鍬が山積みにされた地(鍬山)とされる[8]。鍬を作った地ともいう[9]。
大井神社 (亀岡市大井町並河)
式内社。想定湖範囲の中心部に鎮座。湖の水が乾き残り「大いなる井戸(大井)」となったとされる[14]。現在、境内に「丹の池」として残る。
以上の説話は全国に残る大国主の国づくりの1つである。同様に太古に湖があったという伝承は、甲府盆地等の日本各地の盆地にも見られる。
なお、後世江戸時代に入り、保津峡は角倉了以によってさらに開削されることとなる。
「安倍晴明と安東総理のやり直し転生譚」という小説の続きを書こうと思って、丹波の国(現在の亀岡盆地の周辺地域)の歴史を調べていたら、この場所に丹の湖(紅色の波が立つ湖)があったことが分かってきた。
鮮新世(せんしんせい、約500万年前から約258万年前)から更新世(こうしんせい、約258万年前から約1万年前)まで、標高280mほどの湖であったことが確認されてるみたいで、今の亀岡市街地は100mだから完全に盆地が水没しています。
約1万年前といえば縄文時代(16,000~2,300年前 )で、大国主命が保津峡を開削して巨大な亀岡盆地が出現したという。
盆地が古代には湖だったという伝承は各地にあり、丹波の神社の由来がこの伝承を伝えてるので、おそらく事実だと推定されます。
6世紀ぐらいの口丹波最大の千歳車塚古墳(亀岡市千歳町千歳)などが標高100~200mの高所に存在するので洪水を避けるためだったのかも。
小説の舞台である飛鳥時代(592年 – 710年)には、一応、丹の湖はもう無かったと推定されます。
上流から川の水が流れ込んで、その出口である保津峡(保津川)の排水機能が滞れば、あっという間に洪水被害というか、湖に戻ってしまうこともあったようです。
僕が取材に行った大井神社は亀岡盆地の中心部に当たり、かつての丹の湖の中心であり、ここの井戸は日照りにあった際に唯一、水が枯れない井戸だったそうです。湖の底なので水が集まりやすいとかあるのかなあ。
この亀岡盆地の治水工事にも秦氏が出てきます。
桑田神社
京都府亀岡市篠町山本北絛50.51
祭神[ソースを編集]
主祭神市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
配祀神大山咋命 (おおやまくいのみこと)
大山祇命 (おおやまつみのみこと)
歴史[ソースを編集]
祭神の大山咋命・市杵島姫命は、鍬山神社(亀岡市上矢田町)祭神とともに、湖であった亀岡盆地を開拓のため保津峡を開削したといわれる。当地は盆地入り口にあたるため政治的にも重要な地で、秦氏の勢力がいち早く進出したとされる[2]。社伝では、この地は「田庭」と呼ばれており「丹波」はこの田庭より名付けられたとされる[3][4]。
なんと、松尾大社の主人公、「秦氏」が登場。さらに祭神の「大山咋命・市杵島姫命」って、松尾大社の祭神と同じではないですか。それが湖の干拓?
京都盆地を秦氏が開拓したのはよく知られています。
しかし、何ということでしょう(ビフォーアフター風にお願いします)、
亀岡盆地でも、大山咋命と市杵島姫命を守護神として、亀岡湖の水を保津峡に流す大土木工事を行い、今の亀岡市を作ったとしたら!!
イチから探検のやり直しです。
この亀岡盆地を開拓して京野菜とかの供給源になっていたり、保津峡(保津川)の開削により、保津川→桂川の流れを良くすれば、京都の水源確保もスムーズです。
松尾大社も滝だとか、湧き水(亀池)がご神体だったりして、実際は背後の山自体がご神体なのですが、亀岡市の出雲大神宮も磐座が多数存在します。
ちょうど飛鳥時代にこのあたりの開発が行われていたようです。
当初のGWの丹波と敦賀の取材旅行に、京都の秦氏系神社を加えたことが、今回の小説の描写やストーリーや時代考証に偶然、なってます。
丹波亀山の【亀の試練】の謎は見えて来たのですが、敦賀がいまいち見えて来ないですが、歴史や地形など調べていけばヒントが掴めそうです。
【鶴の試練】も大体は見えてきてますが、やっぱり、その繋ぎの敦賀の歴史的立ち位置が重要になってきます。安部晴明神社とか、豊臣秀吉の命懸けの撤退戦もあり、海鮮丼も美味しくて、土公という古い信仰の神もいたり、ネタはありすぎるのです。
敦賀とは何なのか考えないといけないようです。京都の伏見稲荷大社はどこかで出てきそうだし。ネタがありすぎる取材旅行でした。
それと、江戸時代のイエズス会の幕府転覆計画として、島原の乱、大久保長安事件、伊達政宗の娘のキリスト教の洗礼を受けたいろは姫と家康の六男の忠輝をキリスト教徒が担ぐ計画とかはテロ確定なんですが、由井正雪の乱とかもかなり怪しい。
江戸時代の謀反計画の黒幕は大体、イエズス会が黒幕ですが、これが今の軍産複合体の起源ですが、ハーメルンの笛吹男の真実とか魔女狩りなどから、ペストは人災だったりするかもと思ってます。
歴史は見直すと面白いもんですね。
[磐座祭祀]
当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられております。
[秦氏来住]
五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。
[秦氏の開拓]
伝説によると……
……「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」……
これらの記述は、秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつ、この地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。
[大堰と用水路]
秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地内を通っております。