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二十億光年の孤独

【人間社会内孤独】と【自然宇宙内孤独】

谷川「まず、基本的に【自然宇宙内の孤独】。自然界の中での、命としての孤独と、生まれ落ちて、大人になって、社会に出ていろんな人間関係があって、孤独になる【人間社会内孤独】とは、全然違う孤独だと思うんですよ。」
「ETV特集『ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本』」より

 最近感じる「孤独」について。
 最近、ふと「自分は"ほんとうに"、ひとりぽっちだ」と感じた。
 まず断っておきたいのが、これは単純に人との関わりがないことや、友人や恋人が居なくて独り身である、といったような、いわゆる"ぼっち"や"仲間はずれ"という意味ではない。仰々しいことを言うようだが、「人間は根源的にはひとりぽっち(孤独)だ」という当たり前の事実を、より深いところでしみじみと感じているのだ。

 私は普段、家族や、通っている施設の職員の人、病院の先生くらいしか普段は会わないんだけど、そういう、社会との関係がギリギリで保たれていること、わずかな人とのつながりでギリギリ耐えていること、で感じる「孤独」は、ここ2、3年ほどで乗り越えたのだが、最近感じる孤独はそれとはまた別の種類のものだ。

 私は先に書いたように社会とのつながりが希薄で、そのため他の人間とコミュニケーションをとるツールとしてインターネットを使っている。現代はSNSで簡単に人と繋がれる時代。現段階の生活環境において人と関わるのが難しい私は自ずとネットに対してコミュニケーションを求めてしまう。

 例えばYouTubeの「メンバーシップ」なんかがある。月額制でそのチャンネル内でサロンをひらいて意見交換の場にしたり、メンバーシップ限定で見れる動画があったり。そのチャンネルのホストの発信するものに対して感応した者同士がお互いを高め合うため、社会生活の中でなかなか言えない自分の意見を聞いてもらうため、ただ好きなものを同志と共に楽しむため等々…。いろんな目的があると思う。私はこういうメンバーシップには一切入っていない。しかし、「こういう集団の中に入れたらどんなに楽か、同じ意見を持つもの同士で語り合うのはどんなに楽しいか」と、「メンバーシップ」の誘惑に誘われることが度々ある。誘惑に引き込まれそうになりながら、それでも抗い続けている。

 なぜかというと、これはもう単純に「一時的に気を紛らわしているだけ」だと冷静な頭で考えてしまうからだ。メンバーシップやそういう類に参加している人すべてがそう、と言いたいわけでは決してなく、あくまで自分に関してのみの話だが。何かに所属して、自分と同じ好きなものを同士と楽しむ。意見を交換しあって自分の考えが認められることの喜びを得る。どれも魅力的で、人生を豊かにしてくれそうである。しかし、私は何か引っかかるのだ。私はどこにも属せない。最近ネットを利用して感じたのはこれだった。現実はおろかネットの世界でも、どこにも属することが出来ない、と。

 例えるなら、ごうごうと流れる濁流の中を、なんの支えもなしに、自分の脚で踏ん張って流されないようにひたすら耐えているような感覚。ただじっと耐え忍んでいる。「孤独」であることを。流されないでいることを。
 現状を乗り越える方法が分からない。壁に直面して試行錯誤した末、スマホの画面から目を上げたところにあったのが、自室にある棚に並んだ本たちだった。

 「なんの支えもなしに」と先に書いたが、全く何も支えがないわけではない。私には本がある。"宇宙はどんどん膨らんでゆく それ故みんなは不安である" 。この果てしない宇宙の中で、たったひとりぽっちだという不安。詩人の谷川俊太郎はそれを【自然宇宙内の孤独】と言った。私はこの言葉というか概念が、今の私にとって課題なのだと受け止めた。【自然宇宙内の孤独】。その中で、耐え忍ばなければならない現実の中で生きていくために「文学」、映画や本、音楽があるのだと思う。

 今の孤独と向き合い、「寂しさ」や「愛されたい」といったような人として未熟な気持ちを超えるために、私は本を読む。広大な宇宙に産まれ落ち、そこで感じる孤独に感応した人たちが紡いできた言葉を、物語を、自分にもまた引用可能なものとして取り入れ、現状をひたすら耐え忍ぶ。

 先が見えない。身体が重い。温もりが欲しい。不安に押しつぶされそうだ。でも今は修練の時だと、乗り越えた先に希望があるのだと信じて今日も、朝起きて歯を磨き、ご飯を食べて外を歩いて、少し本を読んで風呂に入って眠るのだ。


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