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“ここに居ていい”と言うこと

 続・DLsite

 以前、「DLsite」を利用して泣いた話という記事を書いたのだが、今回はその続きのような話になる。

 その後も私はDLsiteを利用している。とはいえ、ASMRの作品は単価が少々お高めなので利用していると言っても2、3作品ほど買った程度だ。(※これ書いてる間にもいくつか購入しましたw) 前回は全年齢向けの作品について書いたのだが、今回は成人向けのものを視聴して考えたことを書こうと思う。

 そもそもの話、DLsiteで販売されている同人作品のほとんどが成人向けである。だいたい私はエッチな作品目的でこのサイトにたどり着いた。たまたま前回の作品は全年齢向けで健全だっただけで、ほとんどがサンプルを聴くだけでも赤面してしまうほどの代物である。そんな中、私は一つの作品に巡り合い、また衝撃を受けたのだった。


これは“ほぼSEX”?

 私が購入した作品は、ダミーヘッドマイクで録音された音声と行為中の様なリアルなSEを駆使し、なんと「擬似セックス」を味わえるというもの(キャー///)。声優の人が同時に脚本も担当している(というか台本なしアドリブ一発取りみたいなもの)という点にも興味を惹かれ、購入した。そしていざ視聴してみるとわービックリ! 甘いささやきから始まり、生々しいリップ音に甘い言葉の洪水、想像以上に“スケベ”な世界がそこにはあった。

 驚き、戸惑いつつも、(これを待ってた!)と興奮しながら視聴を続ける。これはいろいろ聴いた後に思ったことなのだが、世の女子たち(もちろん全員ではないが)は、こんなにエッチなものを日々聞いたり見たりしてるのか! もっと早く教えて欲しかった。
 驚いたのがとにかく相手の男性との距離が近く、「これ隣にいるのでは⁇」と感じるほど。私は心臓をバクバクさせながら布団の中で悶えていた。呼吸が、声が、耳のすぐ近くで聞こえる。相手の息が実際に自分の耳にかかっているかのような感覚がする。近い。近い。ドキドキする。

 甘いささやきとリアルな行為中の音にすっかりたじたじになりはぁはぁ息をしていると、急激に相手を近くに感じた。相手の手が触れる感覚、その温もりを、一瞬確かに感じた気がしたのだ。

 そして、

 優しい男性の声。ひたすら自分を褒め称えてくれる甘い言葉。優しさとエッチさの洪水に飲み込まれ、相手の温もりをひたひたに感じ、気付けば涙がツーと頬を伝っていた(コイツまた泣いてるな)。もうこれはほぼSEXしたと言っていいのではないか。いや、なにかそれ以上のもの、行為以上のものがそこにはあった。それは、

 *

 作品のレビューを見ていても、私と同じようなものを感じている人が多く見受けられた。

「好きっていう言葉はどんな前戯よりも脳と体を直撃する愛撫なんですね。」
「脳が痺れる感覚で涙が出た。」
「この作品で、それでいいんだよ、と励まされる様な、『肯定される喜び』をとても強く感じました。」

 つまり何が言いたいかというと、私が感じたのはレビュアーさんも書いている通り、「肯定される喜び」だったのだ。「好き」と言ってもらえること。大切にしてもらえること。大人になると、恋人がいない限りなかなか自分の存在を肯定してくれる/肯定する機会が少なくなる。職場でどんなに頑張っていても、ひたすら孤独に耐えていても、誰が褒めてくれるわけでもない。なんでもない日常を、淡々と生きていかなければいけない。時代が進むにつれつながりの断絶は深まり、人と人との間には大きな溝が生まれてしまった。そんな世の中で、さらに強い孤独感を抱える現代人が多い今、こういうコンテンツで救われている人はきっとたくさんいるんだろうなと思った。

 あともう一つの気づき。普段、こういう話を女性から一切聞かない分、作品へのレビューの多さや熱に驚かされた。そこには普段抑圧されて見えないようになっているものが可視化されている感じがした。女性用風俗なども最近は増えていると聞くが、やはり時代的に求められているのだろうか。自分を肯定してくれる、人の温もりのようなものを。


声にならない気持ち

 映画「万引き家族」で、一番印象に残ったシーンがある。それは女優の松岡茉優演じる「亜紀」が、働いている風俗店で常連のお客さんと会話をするシーンだ。会話、と言っても、お客さんを演じる俳優の池松壮亮にはセリフが一切なく(おそらく声が出せないことを表している)、彼に対して亜紀は膝枕をしてあげながら一方的に話しかけている。次第に、亜紀は彼が抱える傷を自分の中にもあるものだと感じ、利用時間が終わり帰ろうとする彼を引き留め、思わず抱きしめる。
 「痛いよね、痛かったね。」「暖かいね。
 亜紀に頭を撫でられながら、彼は涙を流していた。 

「万引き家族」のワンシーン。

 このシーンでは、「声を出さない/出せない」者たちの悲痛な叫びが切実に伝わってくる。池松壮亮演じる匿名の彼は、店でのサービスよりも亜紀自身を求めていた。人の温もり、愛のようなものを。同時に亜紀もそれに飢えていたのだ。この場面では「好き」などといった思いを伝えるわけではなく、性的な行為をするわけでもなく、相手の痛みに対して「私もそうだよ。」と伝え、同時に「ここに居ていい」と亜紀が相手を肯定する。(そういうセリフこそないが) お互いの孤独感を埋めるように抱き合う二人の間にはなにか絆のような、人間愛とでも言うようなものが生まれていた様に見えた。


宇宙のみなしご

 「大人も子どももだれだって、いちばんしんどいときは、ひとりで切りぬけるしかないんだ、って。」

『宇宙のみなしご』森絵都,講談社,1994

 人を救うのは誰かの何気ない優しさだったりする。えっちな音声作品を聴いていても一番胸に沁みるセリフは何気ない「おいで。」だったりする。そんな何気ない、でも普段なかなか言えないし言われない言葉が、こんなにも心を解きほぐしてくれるものかと音声を聴きつつ静かに驚いていた。優しくそっと伸ばされる手。私はそれを掴もうとする。一瞬、心が触れ合った感覚がある。確かにある。私はそんな経験がないから、これは前世の記憶なのだろうかとかスピリチュアルなことを思ったりする。

「ぼくたちはみんな宇宙のみなしごだから。ばらばらに生まれてばらばらに死んでいくみなしごだから。自分の力できらきら輝いてないと、宇宙の暗闇にのみこまれて消えちゃうんだよ、って」
「でも、ひとりでやっていかなきゃならないからこそ、ときどき手をつなぎあえる友だちを見つけなさいって富塚先生、そういったんだ」
「手をつないで、心の休憩ができる友だちが必要なんだよ、って」

『宇宙のみなしご』森絵都,講談社,1994

 少し筋から逸れるが、私はこの記事を書くにあたって、つまり音声作品含めた様々なサービスや、人々が抱える孤独等を考えている際に、森絵都の小説のタイトルである「宇宙のみなしご」というワードが頭から離れなかった。この作品自体何年か前に読んだことがあり、しかし内容を忘れていたので再度手に取り読んでみた。
 上に引用したのは、登場人物である「すみれ先生」が、教師を辞める前に生徒に残した言葉だ。私達はみんなばらばらに生まれてきた宇宙のみなしごで、自分の力できらきら輝いていないと暗闇に飲み込まれて消えてしまう。でも、ひとりでやっていかなければいけないからこそ、心の休憩が必要なんだと、先生は言う。“心の休憩ができる友だち”というのが、自分の存在を(無条件に)肯定してくれる存在、とも読める。私が音声作品を聴いて涙が出たのも、この星にばらばらに産み落とされて、自力でなんとかやってきて疲弊した心(大げさな表現になってしまうのはご了承いただきたい)に、束の間の休息をその作品を通して与えてもらったからだと、無理くり紐付けて理解することもできる。

 人間はみんなひとりだ。宇宙のみなしごだ。それでも“ここに居ていい”と、存在を肯定する/されることで、それを支えにして生き延びることができる。今すぐにそんな友だちや恋人を見つけるのは難しいが、だからこそ現代には心の隙間を埋めてくれる様なコンテンツが探せばたくさんある。依存してしまうのは良くないが、日々のストレスで心が疲弊していたり、神経が張り詰めてしまって眠れない夜など、たまには甘やかしてもらう時間も必要なのではないかと思う。

 私たちはばらばらだけど、たまに手をつなぎ合って「ここに居ていいんだよ」と言いたい。とにかく生き延びて、と祈りながら。


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