スケルトン・キー

skeleton key

意味:親鍵・マスターキー

同義語:pass key / master key


車のウィンドウに雪がはらはらと降ってくる夜。街の灯りを反射するように綺麗な星。

君の家の近くの山道に車を止めた。

君の手が、泣きはらした僕の目を押さえ、頬に伝う涙の線を辿った。

僕は何か言おうとしたけど、頭の中がぐるぐる回って何も口にできなかった。

君の手がふわりと僕の膝の上にのった。

僕は少しだけうなずいて、車を出した。

君の手を握る。

僕は少しだけ笑って、アクセルに力を入れ、山道を上った。


君の手は、僕の心のドアを開ける唯一の鍵。

閉じこもった僕を、世界に開いてくれる鍵。

星埜(ほしの)に出会ったのは数年前、僕たちがまだ高校生の時だった。

学校の課外活動で無理矢理行かされた募金活動で、同じようにして集まったもう一つ別の学校から来ていたグループの中の一人、背筋をすっと伸ばして声かけ(募金にご協力、よろしくお願いします!)の先陣をきっていたのが星埜だった。

やりたくもないボランティアで休みの日を潰されて不愉快だった僕は、一人だけ馬鹿みたいに声を張り上げているやつがいるな、どこにでも偽善者はいるもんだ、なんて思っていた。


「ありがとうございます!」

あまりにも大きな声だったので少し驚いてその声に目をやると、募金をした小さな子供に、しゃがんでお礼を言っていた。子供相手にございますは無いだろう、と思ったけど、おまけの赤い風船を笑顔で差し出しているその笑顔を見て僕は漫画みたいに簡単に恋に落ちた。

明るい日差し、その光線が透ける風船、風船の影の落ちた赤い手。

その手の先の子供を見つめるまぶしい笑顔。

それはなんて白々しく、なんて胸が高鳴るような光景で、まあ、お年頃の僕としては、一発で。

周りくどくもややこしく、それでいてあくまでも一般的な諸々の手続きを経て、僕と星埜は付き合うことになった。
いわゆる告白をしたのはもちろん僕の方だ。これはなかなかできることじゃない、僕的に。

奥手で人に意見を言えなくて、流されるままに生きてきた僕には、本当に清水の舞台から飛び降りて無傷かつ自力で生還する乳児くらいありえないことだった。でも僕はあのときの手と笑顔に導かれるように、自分の意志で前進した。

たまたま運がよかったらしく、流されるがまま不機嫌さをさらす度胸も無く募金活動に励んでいた僕は星埜から見るとすごく真面目そうに見えたらしい。

僕らはすぐに仲良くなった。

なんの変哲もない会話を繰り返し、なんでもないことでもうれしそうに笑ってくれる星埜を見るのが好きだった。普段全くといって良いほど喋らない僕は、星埜といる時だけ、よく喋り、よく笑った。急速に仲良くなることが、自分たちだけが特別で、運命のようで。

それは恥ずかしくて言えなかったけど、その空白を埋めるように僕たちは毎日毎日その日あったおもしろい出来事や(それは傍から見るとおもしろくないだろう)、些細なニュースに関する意見を交わし合った。

初めて手をつないだときのこと。

それはそれは絵に描いたようなシチュエーションの夜の川沿いのベンチで。僕はともかく星埜は素直でまっすぐで、僕と同じく奥手なやつだったので、カップルとしてすごくベタで、かつすごくスローな感じで日々を過ごしていたのである。
隣り合って座って、ふっと右手が触れてしまった。そのまま離してしまうのも惜しいし、逆になんだかわざとらしかったので、僕はちょっとだけ勇気を出して、手を握ってみた。
それは、柔らかくて、暖かくて。
初めて会ったときのあの太陽のぬくもりが残っているみたいに。

僕は涙が出てしまった。

大げさだよ、って星埜は笑ったけど、そう思うのは僕も同じだった。意味がわからない。人前で泣くことなんて物心ついてから初めてだった。

心臓が締め付けられて、水分があふれ出したみたいに、涙は止まらなかった。

理由も根拠もないけど、僕は生きているのを許されたような気分になったのだ。

星埜は僕が泣いている間ずっと、困ったような顔で、それでも僕の手を握りしめていてくれた。

ひとしきり泣いた後で、遅くなってしまったので、僕らは手をつないだまま帰った。
星埜の家に着くと、僕は半身を剥がされるような気持ちで右手を離した。


それからというもの、僕はどこへ行くにも、星埜と一緒にいるときは手をつないでいた。何をするにも片手で。そうしている限りは僕は生きていると思えたし、少しだけ元気を出して前向きに物事をとらえることができたのだ。

幸せは3年ほど続いた。


大学は地元から離れた関東の大学へ進学した。

星埜も一緒に。

実家暮らしから解放されて僕たちは、前よりも一層たくさんの時間を一緒に過ごすようになった。新しい生活に慣れるために1年が過ぎた。

異変は少しずつ起こった。


外に出たくない、と泣くようになった。僕はそれをなだめるために、手を握って抱きしめたり、夜の散歩に出かけたり、食事につれていったり、いろいろしたけど、それでも機嫌がよくなることはあまりなかった。

辛い、と繰り返しいいながら大学やバイトにいく星埜を送っていくくらいしかできなかった。

薬を飲み始めた。

心療内科でもらってきたらしい。鬱病だった。

まあそうだろうと思っていたので、驚きはしなかったけど、何も助けてあげられない自分が悔しかった。薬を飲んでも劇的に変わる訳ではなくて、辛いのには変わりがないようだった。お酒を飲むようになった。その時だけはひどく上機嫌で、僕もすこしだけうれしかった。手は握っていた。ほとんど毎日を僕の家で過ごすことになっていた。

手首に傷を見つけた。

左手首の内側に、何本か赤い切り取り線みたいに、傷があった。僕はこんなときに限って言葉が出なくて、なんでもない振りをしようとしたけど、なんだかショックで泣いてしまった。めっきり泣き虫になってしまっていたのだ。

星埜はそれに気づいて、やっぱり下を向いて黙った。どれくらい?と聞いたら、一週間くらい前から、と答えた。一週間も気づかなかったのか、と僕はまた泣いた。

それから星埜の自傷行為は加速した。手首から腕からところかまわず。左腕の半分はぼろぼろになった。刃物を隠したりはしたけど、カッターが無くなればハサミで。ハサミが無くなれば、カミソリで。カミソリがなくなれば、包丁で。包丁がなくなれば、鏡を割ってその欠片で。

刃物を隠すのにはあまり意味がないと気づいたし、むしろ傷は大きくなる一方だった。ガラスのときは傷が深くなりすぎて、手のひらが真っ赤になって、大きくはないものの床に血だまりができるほどだった。
刃物を隠すのはあきらめて、切るなら傷がひどくならないように、手の甲にしてくれ、とお願いした。星埜は約束を守った。

腕なら服で隠せる。手首も袖で隠せる。

でも手の甲は隠しようがなかった。
どうしても目に入ってしまう。僕はその傷を見て、顔が強張ってしまったらしく、星埜はそれを察して手を引いた。ごめんなさい、と言って、静かに笑っていた。僕はその手を追わなかった。
追えなかったのだ。
もう星埜の手は、傷の上に傷を作って、治る前にまた切って、を繰り返していたので、肌色とはほど遠いぼろぼろの赤紫色になっていた。まともに見ることができなかったし、さわることすらためらわれるくらいに、傷だらけだったのだ。

たぶん初めて、その夜は手をつながずに眠った。


だからーーその夜ーー、星埜がベッドを抜け出していなくなったことに気づかなかった。

目めたときにすでに星埜はいなかった。
服はそのままで、パジャマがない。

胸騒ぎがした。ざわざわと、がさがさと。
僕は煙草を一本だけ吸って、落ち着くように自分に言い聞かせながら、服を着替えて車のキーを握りしめた。

彼女の家は僕のうちからは近く、寝間着のままなら、まずそこしかないと考えた。急がないと。僕は心の声にせき立てられるように、車を走らせた。

すぐにマンションが見える。その8階が彼女の家だ。

もらった合鍵でエントランスを抜け、エレベーターで8階を押す。

ゆっくりと上昇するエレベーターにいらつきながら、ぼくは手に持った鍵をがちゃがちゃとせわしなく鳴らした。8階に着く。

803号室が彼女の部屋。

汗ですべる鍵をしっかりと握りしめて、僕は玄関のドアに鍵を差し込んだ。


水の音。

つけっぱなしの電気。

散らばる寝間着。

血のにおい。


靴も脱がずに僕は中に駆け込んだ。


小さなユニットバスの浴槽に、彼女がいた。
もたれかかるように、しなだれかかるように、浴槽に身を委ねて。
血まみれのお湯。シャワーが延々と彼女と僕に降り注ぐ。
真っ白な彼女。
血色のいいピンク色の頬はもう見る影もなく白い。
そのピンクは、
彼女の左手首から流れ出て行ってしまったようだ。

赤い赤い赤い手首。

風船の赤。太陽の赤。

彼女の血の色。

しかし、そこには手首から先はなかった。

ぎざぎざの断面。真ん中に白。赤色の肉。引きちぎられたような。

もう無駄だ、と分かっていたけど、僕は彼女の心臓に手を当てた。
心臓は、動いてはいなかった。

シャワーのせいだろうか、彼女の体は暖かくて、悲しかった。

それでも、涙が、出ない。

僕が握った左手は、もうない。

僕の感情の鍵はなくなってしまったのだ。

ふらふらとぼくは浴槽を出た。

でんわを。

きゅうきゅうしゃを。

けいさつか。

――食卓の上に手紙。


手をつないでいるのが好きでした。あなたが流す涙が好きでした。あなたの笑顔が好きでした。

ずっとずっと一緒にいたかった。

この手が、この左手がこんなにも醜くなってしまったから、あなたは手を離した。

あなたは気づかなかったかもしれないけど、私は、あなたの手を握っているときだけが、あなたと一緒にいるときだけが幸せでした。ほかの人とは落ち着いて話せなくて、どうしても心に壁を作ってしまう。あなたの手だけが、私の壁を越えて心を直接なでてくれるの。すっと気持ちがあなたに向かう感じ、わかるかな。壁が溶け出して、あなたに直接触れることができた。

生きてるのは辛かった。私だけじゃない、って頭では分かるし、何不自由なく暮らしてるのも実感できる。もっともっと飢えている世界や、もっともっと貧しい世界や、もっともっと争いがたくさんある世界があって、わたしがいるところは平和でご飯も食べられて、好きな服を買えるくらいのお金があって、生きたくても生きることができないなんてことはない。
そんなのはわかるけど。それでも、なんで生きてるのか分かんなくなって、人に嫌われることだけが怖くて、理解されないことが怖くて、分厚い壁を作ってしまう。仮面をつけてしまって、私はますます孤独になる。孤独に耐えきれなくなって、死にたくなってしまう。

それでも、ね。あなたがいるから生きていけた。あなたが手をつないでくれるから。一緒にいようって言ってくれるから。辛いのがその一瞬だけは安らぐような気がしたんだ。なんでもないことで笑って、なんでもないことで泣いて、なんでもないことで喧嘩して。そんなことが私にとってはすごく大事なことだったの。

でも、手を離されてしまった。あなたが悪いんじゃないよ。私。

この左手は、あなたのためのものだったのにね。自分のために傷つけてしまった。

こんな醜い手があったらあなたが怖がるんじゃないかと思って、なくしてしまってからさよならをしようと思います。

痛いんだろうなぁ。

でも、あなたが抱きしめてくれなかったら嫌だし、キスしてくれなかったら嫌だし、がんばろう。
(遠回しなおねだりです。最後の。)

勝手に抜け出してごめんね。

ずっと一緒にいたかったです。もっと映画を見たかった。もっと遊びにも行きたかった。もっと一緒にご飯を食べたかった。あなたと一緒に暮らしてみたかった。結婚式もあげてみたかった。ウェディングドレス、私が着てもかわいいかどうかわかんないけど、着てみたかった。見てもらいたかった。

もっと時間を一緒に過ごしたかったです。手を、つないで。

まだまだやりたいこともたくさんあるのに、君の手がなかったらと思うと怖くて不安でたまらなくなってしまいました。

わがままでごめんなさい。

言うことを聞かない子でごめんなさい。

大好きです。

最後に、うまくいったらね、右手しかないかもしれないけど、

右手はね、まだきれいだから、もう一度だけ手をつないでほしいです。


星埜 』


左手は、キッチンのシンクに血まみれで落ちていた。

僕はそのざらざらでぬるぬるした左手を持ち上げて、そこではじめて、泣いた。

僕も同じ気持ちだったのに。
ずっと一緒にいたかったのに。

どこですれ違ってしまった?

手紙をたたんで、君の左手を握りしめ、涙をほほに伝わせながら僕は風呂場へ向かった。

ざあざあと流れるシャワーの中で君は目を閉じている。

僕は君を抱きしめる。

君はまるで初めて抱き合ったときみたいに固くなって、なかなかうまくいかなかった。

君は、まだ暖かかった。

シャワーの雨に打たれながら僕は君にキスをした。

しばらくぶりのキスは、全く違う感触で。でも前の感触がどんなだったかも思い出せなくて、僕はまた泣く。

右手はきれいなまま、だけど、僕は左手をしっかりと握った。


醜くなんかなかったんだよ。
ただ君の、辛さに向き合うことができなかった。
ごめんね。

血まみれで、傷まみれの左手に口をつけて、僕は君の身体にしがみついた。

大事な、君の左手。
僕はもう離さない。
絶対に。


僕は左手を持って、君の家を出て、急いで自分の家に戻った。

1週間が過ぎ、1ヶ月経ち、僕はずっと君の手を握りしめていた。

少しずつ肉が落ち、白いものが見え始めて、今ではもうほとんどが骨になってしまっている。

醜いと思っていた傷も見えなくなって、君は喜んでいるんだろうか。

もっときれいにしてあげようと、僕は君の手を洗った。

真っ白になった君の手を見て嬉しくなった僕は、すこしだけ微笑んだ。

君と手をつないでいれば、僕は大丈夫。

君もそうだよね?

さらに、1週間くらいした後、僕の家に警察が来た。

どうやら、彼女は学校に行かないことが多かったから発見が遅れたらしい。

左手がないことについて聞かれたが、僕は黙っていた。

このままだと、君の左手を取られてしまう。

僕は逃げることに決めた。


君のところへ。


最後は君と星を見に行った、あの山にしよう。
君の家から少しいったところにあるあの山。
近所だったけど、そこそこ夜景もきれいで、穴場だった。
よく一緒に行って、手をつないで星を見ながら話をした所。


僕は、君と手をつなぎ、久しぶりに車を出した。


最期は、君と一緒に。


車のウィンドウに雪がはらはらと降ってくる夜。街の灯りを反射するように綺麗な星。

君の家の近くの山道に車を止めた。

君の手が、泣きはらした僕の目を押さえ、頬に伝う涙の線を辿った。

僕は何か言おうとしたけど、頭の中がぐるぐる回って何も口にできなかった。

君の手がふわりと僕の膝の上にのった。

僕は少しだけうなずいて、車を出した。

君の手を握る。

僕は少しだけ笑って、アクセルに力を入れ、山道を上った。


君の手は、僕の心のドアを開ける唯一の鍵。
閉じこもった僕を、世界に開いてくれる鍵。



僕は、君の手を、握った。